okakiyoshi-800i.jpeg
2023.08.20up

岡潔講演録(31)


「岡潔先生と語る 」(3)- 西洋の真似はやめよ -

【12】 死ねばどうなる、霊と魂

 (男性)私、浄土真宗の会へ行きまして話を聞いたんですけれども、その会に集まって来ている方は村の方で、素朴な田舎の人ばかりなんです。そこでお話しされる方は東本願寺から派遣されて来ている方で、まあ見識のある方だと思うんです。それで村の人達がどういう質問をするかと云いますと、自分達は死んだら極楽へ行くのか、あるいは地獄へ行くのかというような質問をする訳です。それに対して、自分には極楽に行けるとも地獄へ行くとも云えないというような答で、案外納得のいく答が得られない訳です。

 私、浄土真宗の会へ行きまして話を聞いたんですけれども、その会に集まって来ている方は村の方で、素朴な田舎の人ばかりなんです。そこでお話しされる方は東本願寺から派遣されて来ている方で、まあ見識のある方だと思うんです。それで村の人達がどういう質問をするかと云いますと、自分達は死んだら極楽へ行くのか、あるいは地獄へ行くのかというような質問をする訳です。それに対して、自分には極楽に行けるとも地獄へ行くとも云えないというような答で、案外納得のいく答が得られない訳です。そこへ集って来ている人達は霊とか魂とかいうことに大変関心を持っている訳です。しかし、浄土真宗で云う無量寿如来とか、信仰とかいうことの解釈については説明するんですが、自分が死んだらどうなるかというような素朴な質問に対しては、納得のいくような答が得られない訳です。死後極楽に行くかどうかというようなことについては、自分にもはっきりわからないというような答なんです。岡先生は死後の魂というようなことについてはどのようにお考えでしょうか。

 (岡)つまり死んだらどうなるのかと云うんですか。

 (男性)ええ。

 (岡)そういうご質問ですか。

 (男性)ええ。

 (岡)死んだらどうなるのかというご質問でしょうか。

 (男性)ええ、そうです。我々生きてる間は命もあり感情もあり、まあ先生がおっしゃったように第一の心、第二の心がある訳ですけれども、いわゆる死後どうなるのかと。そういう問題を田舎の人でも出す訳ですが、確かな答が得られない訳です。先生はそれについてどういうふうにお考え・・・

 (岡)つまり死後どうなるかというご質問ですか。それだけでしょう。

 死ぬというのは肉体が死ぬ。そうすると第一の心は無くなる。そうすると第二の心だけが残るから、もしそうなればそれは仏です。大菩薩ぐらいでもなるかもしれないが、なかなか神や仏にまでそう簡単に向上出来るものではない。仏教は死ねばまた別の肉体が出来るのだ、そう教えてます。その肉体が人道の肉体とは限らないんですね。それで六道輪廻と云う。仏教はそう教えてるんです。そんなこと、はっきりしてるんであって、はっきり答えられないっていうのはおかしい。

 (男性)そうしますと、日蓮宗の法華行者なんかが、よく霊について、霊が見えるとか云いますが、やっぱりあるんですか。

 (岡)そんなとこで霊と云っているのは、これは魂と云うのが正しい云い方。魂は第一の心です。普通第二の心を霊と云うのです。第二の心ではありません、第一の心。つまり肉体が無くなっても第一の心はなお残っている、それが魂です。普通は無くなるのが本当ですが、あとへ残像が残ってる。それが魂とか幽霊とか、そういうもので、心霊学はそればかりに興味を持ってる。霊と云うのは、第二の心を霊と云う。こういうもののあることは、西洋人は全然知らない。大体時間も空間も無い世界ですそこが根本。時間、空間が無ければ魂というものはありません。浄土真宗は原理を説かない 云ってることもおそらく間違いです。

 (男性)間違いですか。

 (岡)ええ。日蓮宗も原理を説かない、原理を説いていません。

 (男性)原理ですか。

 (岡)原理。真理。

 (男性)ああ、真理。今先生のおっしゃっている霊なり魂なりは・・・

 (岡)魂というのは第一の心です。

 (男性)ある特殊な能力を持った人には見える訳ですか。

 (岡)天眼で見えます。そんなに高い能力でなくても。あれは極く低いものです。

 (男性)透視というのが有りますね。

 (岡)天眼です。ああいう動物的能力を喜ぶ癖が人にあって、それが迷信をはびこらせる。困ったことです。

 (男性)そうしますと、今から何年か前、仮に平安時代としまして、その時代の人に霊の上で会うということは可能な訳ですか。

 (岡)霊のなんとかで会うんじゃありません。その時代を見る目があれば見える。それが天眼です。

 (男性)そうですか。時間、空間を超越する訳ですね。

 (岡)超越してやしません。時間の中において数千年遡る訳です。そこには時間、空間は矢張り有る。だから真理ではないんですが、そういう映像なら、一度映写された映像なら、見られるということです。そういう能力を(たっ)とんではいけない。

 (男性)浄土真宗では無量寿如来と云いますけれども、その無量寿と云うのは・・・

 (岡)阿弥陀如来を無量寿、無量光如来と申し上げるべきですが、浄土宗や浄土真宗はまだ充分進化していないから、そのことを知らないのだと、これは不完全が完全に向こう過程である、そう弁栄上人は云ってられます。だから矢張り、総ての第二の心の合一、これが無量寿如来だと云うのが正しいんですね。が、そこまでまだわかってないのだ、そう云ってられます。わたし、それが正しいと思う。だいたい弁栄上人のおっしゃることは、ちょっと疑えない信者が多いとかなんとかいうことと、それが真理であるかどうかということとは無関係です。

 (男性)先生もう一つお聞きしたいんですが、如来と云うのは仏と云うのとは少し違う訳ですか。

 (岡)同じことです。真如来現の人という意味で、真如というのは第二の心の合一が真如です。真如からじかに出て来た人、それを如来と云う。

 (男性)我々凡夫にはその姿は見られないのですか。

 (岡)肉眼では見えません。

 (男性)心眼でも見られませんか。

 (岡)心眼って? このね、目には仏眼、法眼、慧眼、天眼、肉眼、五種類あります。仏眼と法眼とどちらかによってでなければ仏は見えない。

 (男性)心の目と云う、心眼と云うのは?

 (岡)そんなのはありません。仮にそう云うん。

 (男性)そうするには、我々凡夫というのは・・・

 (岡)肉眼です。

 (男性)もっと修行せなあかん訳ですか。

 (岡)一代や二代の修行では仏は見られません。普通ね。だから素直に信じるべきです。だから単細胞からここまで向上して来たことを不思議に思いなさいと、そう云ってる。これは理性を使う。これを第六の目と云ってる。普通それを心眼と云います。理性の目。日本人はそれをさっぱり使わないんだけど、東洋人は西洋人に学ぶまでは理性の目をさっぱり使わなかった 使わなかったらしいんですが、肉眼と云うと五感ですね、普通の人の五感以外、もっと高い感覚は、なかなか働くようにはなってこないのだから、理性を働かせてその間隙を埋ずめるのがよいと思う。今後はそうすべきだと思うのです。わたしも出来るだけ理性さえ働かせてくれたら、成程と思えるようにお話ししてるつもりです。

 新興宗教の教祖様なんていうのは超能力を持ってる。こういう超能力はなにも人でなくても、動物はよく持ってるんで、だいたい天眼。天眼と云えば矢張り妙観察智の働きでしょうね。狐が人を化かす、ああいう能力を喜んじゃいけない。

 人には善意というものが働く。これ有るが故に人です。何故かと云うと、これは心の中で神々が働き続けているから。あるいはこうも云えます。人本然の心は、自然を見れば自然が懐かしいと思い、人を見れば人が懐かしいと思う。これは、仏教は人の第二の心に平等性智という智力が働き続けているからだと、そう教えてますが、人はそういう点に誇りを持って、それを大切にすべきです。

Back    Next


岡潔講演録(31):「岡潔先生と語る」(3) - 西洋の真似はやめよ - topへ


岡潔講演録 topへ