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2023.02.13up

岡潔講演録(29)


「岡潔先生と語る」 (1)- 東洋と西洋の融合 -

【5】 知、情、意

 (男性)私、先生のご本をいろいろ読ませて頂いておる訳ですが、そのなかで理性と知性の区別とその内容・・・

 (岡)人には平等性智という智力が働く。平等性智というのは無差別智と云って、働かそうと思わなくても働く。総て無差別智と云えば、働かそうと思わなくても働くし、一時にパッとわかってしもう。そういう智力です。その平等性智が時間、空間があると思うところに流れ入ると ―― 始めの平等性智、これ真智と云うんですね、無差別智が真智であると。それが時間、空間のあるところに流れ入る。平等性智は第二の心に働くから、時間、空間無いところに働く。これが時間、空間のあるところに流れ入ると、無差別智が分別智というものになる。大分濁るんです。それがまた自他の別あると思うところに流れ入って、さらに濁って、世間智というものになる。で、嵯峨天皇の(ぎょ)筆に、

  真智無差別智妄智分別智邪智世間智

というのが京都の博物館にありますが、お経の一節だから「無差別智が真智であって、分別智は妄智であって、世間智は邪智である」と、そう云うんです。

 その平等性智の世間智態、これを理性と云うので、だからとても理性では駄目です。じかに平等性智でなければ駄目です。西洋人はこの理性でいろいろ処理するから、それで人類が滅びそうになってる。理性で否定出来るものは否定しなきゃいけませんが、しかし理性ではとても足らんのです。知性と云えば普通この無差別智、源流ですね。

 (男性)先生のご本の中によく知、情、意という言葉が出てきますが、芭蕉の句で、

  ほろほろと山吹ちるか滝の音

これを情的な見方である、それから・・・

 (岡)はあ?、そんなことどっかへ書きましたか。お読み違いじゃありませんか。まあ続けておっしゃって下さい。

 (男性)それから、

  荒滝や満山の若葉皆な振ふ

そういう句も出てまいりました。それで私・・・

 (岡)ああ、情的な見方であるとは書かなかったはずです。「荒滝や満山の若葉皆な振ふ」と云うのは物質の運動であると云いました。

 (男性)そのことに関連しまして、知情意ということの意味が私はっきりわからないものですから・・・

 (岡)知情意っていうようなことを云い出したのはギリシャ人。我々そのギリシャの系統を引いて知情意と云ってるんだろうと思います。ギリシャ人は何でも分析するのが好きで、それから上手です。分析から始めたら心のことはわからんのですが、しかしギリシャ人は何でも分析する。我々その流れをくんで、今日なにしろ西洋の真似ですから、知情意と云うのだろうと思う。しかし東洋でも知ということは云いますね。それから、意志ということも云う。孔子が舜のつくった何か曲、音楽を、これは知の極致であって、また ―― 東洋でも、よくわからん、云うには云うようです。中国でも云ってるようです。知情意という、そういう観念はあるらしい。しかし知情意とはっきり云ってません。ともかく我々漠然と知情意と云って、そしてわかるような気がしてますね、不思議だけど。あなた、知情意ったらわかるでしょう。

 で、わたし、どっかで一体知情意って云ったら何だろうと思って ―― どう云ったかなあ。もう、昔わかったように思ったこともあったんだけど、忘れてしまった。知情意って云ったら何かわかりません。

 知情意って云ったら何かわからないのに、その言葉を云えば通用するでしょう。本来知情意と分かれるもんじゃないんでしょう。知情意が合わさって一つになってるんでしょう。心というものになってるんでしょう。

 で、無差別智と云ったら、その心へ流れ出るんでしょう。それが第一の心へ影を映すと、知情意と分かれるんでしょう。第一の心へ影を映して知情意となるんでしょう、心が。第一の心へ影を映した知情意ならわかりますね。第一の心は感情、意欲、理性の主人公です。その理性が知です。感情が情です。それから意欲が意です。だから影が三つに映るんでしょう。感情と云い、理性と云い、意欲と云えばわかりますね。それでギリシャ人は知情意と云ったんでしょう。我々は漫然と真似をして、知情意と云ってます。それをもっとはっきり云おうと思っても云えない。本当は心の一つの働きでしょう。それが時間、空間の枠にしばられるところに流れ入り、働きがそういうところへ行く。さらに自他の別あるところへ行くと知情意と分かれるんでしょう。分けるべきものじゃないでしょうね。感情、理性、意欲と云えばもうわかるでしょう。そこまで来て初めて知情意と分かれるんでしょう。ただ知と云ってます、知力と云ってます。無差別智というふうな、その時は知という字の下にさらに日という字を書くんです。

 (男性)どうもありがとうございました。

 (岡)いいえ。わたしも今初めてわかった。どうしてわかってるんだろう。感情、意欲、理性、ここまで持って来て知情意と云ってるんです。それならわかる。ここはこうすべきとこだって云うのは理性ですね。腹を立てて手を振り上げる、これは感情ですね。なぐりたいと思う、これ意欲ですね。それを知情意と云ってる。が、そんなん、もう極く末流です。そこまで来てわかる。知情意という言葉は仏教では使ってないんじゃないかな。

 いつの間にか少しお覚えになりましたね。(笑)

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