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2016.05.16up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【15】 無差別智①

 第2の心には、無差別智という智力が働いているといわれています。無差別智というのは、意識しなくても働く。すなわち、おのずから働く智力。この無差別智には4種類あるといわれている。つまり全体に関するものが2つ、部分と全体との関係が1つ、部分だけに働くものが1つ。全体に関するものの1つは、さっきいったすべてが心の鏡に映るがごとくわかるもの、これを大円鏡智というのですね。

 もう1つは、その大円鏡智の地金のようなもの。つまり全体に関して、ものの本性がわかるというのです。これを平等性智といっている。また、部分と全体との関係、そういう働き方で働くものを妙観察智といっている。また、部分だけに働くという働き方で働くものを成所作智といっている。

 ところで、人が見ようと思えば見えるのはこれは非常に複雑なんですが、その最もおもなものだけをいうと、見ようと思って見えるのは、成所作智の働きによる。成所作智あるがゆえに感覚があるのだ、そういわれているのです。見ようと思って見えるのは、主として成所作智の働きによる。

 立とうと思って立てるのは妙観察智の働きによる。大脳が命令して、大脳前頭葉が命令する。運動領がそれに応じて、命令する。その命令どおりに筋肉が働く。この妙観察智を一即一切、一切即一こんなふうに華厳経(けごんきょう)ではいっている。部分と全体との関係、つまり足並みがそろうのですね。一即一切、一切即一、妙観察智が働くから、そう仏教はこたえる。

 大体人は生まれてからこちらに知ったことのすべては、あたかもこれを蔵書にたとえると1つの図書館のごとく整然と各々の本がそのあるべき位置にあって、ちゃんとした索引さえついている。生まれてからこちらの知ったことの一切が一大図書館のごとくに収められた本のごとき観を呈している。

 平生は忘れている。しかし、何か思い出す、そのものがそのあるべき位置に出てくる。こんなふうになっているのが大円鏡智の働きあるによるのです。精神病の本質的なものに分裂症というものがあるでしょう。この大円鏡智の働きに故障ができたら、そんなふうに思える。そんなふうですから、大円鏡智が働いているから一個の人だといえるのですね。

(※解説15)

 無差別智というと無分別智、または無意識智ともいうのだが、これは一般に「直観」のことであると考えられている。しかし、西洋でいっている「直観」とは何かそこに大きなズレがあるように私は感じる。

 それはなぜかと考えたのであるが、彼等のいっている「直観」とはいわゆるインスピレーション(天啓)のことであって、日常茶飯事に人間活動全般を根底から支えている岡のいう無差別智のことではない。インスピレーションも無差別智の働きの1つではあるが、彼等はその無差別智本体の存在には全く気づいてはいないのである。

 それはなぜかというと、先の(2)「第1の心」の章の中で岡がいっているように、「この心のわかり方は意識を通す」というように、彼等西洋人は「第1の心」の意識を通す心しか知らないのであって、無差別智は意識を通さない「第2の心」に働くから、その存在に全く気づかないのである。

 では、そのインスピレーションとは何かという問題が残っているのだが、それは「第2の心」が宿る頭頂葉に発する「大円鏡智」の光が、「第1の心」の宿る前頭葉に何らかのきっかけで瞬間的にひらめくことであって、これをいわゆる「発見」、もしくは「天啓」というのである。

 つまり、インスピレーションも大円鏡智という無差別智の働きの1つではあるが、無差別智はもっとその存在範囲は広く人間活動全般を根底から支えているものなのである。だから人間を本当に知るためには、この岡がやったように無差別智の本格的研究が是非必要なのである。

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