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横山賢二 新聞記事


【3】心の構造

高知新聞 1992年(平成4年)4月2日(木曜日)

 

 人とは何か、と聞かれると「この体とそれをつかさどる一つの心である」と答える。もっともな答えである。しかし、この答えが本当に正しければ、世の中まことにのどかで平和であるのであるが、実際はそうでないから問題が起きる。

 人の心の構造は二重になっている。人を植物にたとえると、地上部の幹や枝葉は「自我」である。地下茎の外からは見えない部分、これを「真我」と呼ぶ。この色分けは東洋にあって、西洋にはない。実際、われわれの日常の内面生活は、この二つの心の葛藤であるだろう。もし、心が一つきりだったら、人の心は単純過ぎて、世の小説家や文学者のすることはなくなってしまうと思う。

 「自我」の求めるものはごく単純で、「便利、快適、豊かさ」である。われわれはそれを自然科学を使って今日までおう歌してきた。そうすると、一方では空前の物質的繁栄をもたらしたが、他方、人の体と環境に赤信号がともった。人の体の自治機能が次第に衰え始め、地球環境も悪化の一途をたどる。医学と政治にできるのは、せいぜいこれにブレーキを掛けることぐらいで、掛けたところで止まりはしないと思う。

 これは人という植物の枝や葉である「自我」は非常に繁ったが、その地下茎である「真我」は既に腐り始めているという症状である。植物の命は、根があるから永続するのである。まるで根のない植物のようになってしまった西洋文明、われわれはこれを取り入れて一世紀あまりになるのであるが、いったいこれはどういう文明であるか、ここでもう一度考え直して見るべきではないか。

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