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 2012.10.21 up

岡潔講演録(1)


【8】 大宇宙の本体は情である

 情がどうして生き生きしているのかということですが、今の自然科学の先端は素粒子論ですね。これも繰り返しいっているんだけど、その素粒子論はどういっているかというと、物質とか質量のない光とか電気とかも、みな素粒子によって構成されている。素粒子には種類が多い。しかし、これを安定な素粒子群と不安定な素粒子群とに大別することができる。

 その不安定な素粒子群は寿命が非常に短く、普通は百億分の一秒くらい。こんなに短命だけれど、非常に速く走っているから、生涯の間には一億個の電子を歴訪する。電子は安定な素粒子の代表的なものです。こういっている。

 それで考えてみますに、安定な素粒子だけど、例えば電子の側から見ますと、電子は絶えず不安定な素粒子の訪問を受けている。そうすると安定しているのは位置だけであって、内容は多分絶えず変わっている。そう想像される。

 いわば、不安定な素粒子がバケツに水を入れて、それを安定な位置に運ぶ役割のようなことをしているんではなかろうか。そう想像される。バケツの水に相当するものは何であろうか。私はそれが情緒だと思う。

 やはり情緒が情緒として決まっているのは、いわばその位置だけであって、内容は絶えず変わっているのである。人の本体は情である。その情は水の如くただ溜まったものではなく、湧き上る泉の如く絶えず新しいものと変わっているんだろうと思う。それが自分だろうと思う。これが情緒が生き生きしている理由だと思う。生きているということだろうと思う。

 自分がそうであるように、(ひと)も皆そうである。人類がそうであるように、生物も皆そうである。大宇宙は一つの物ではなく、その本体は情だと思う。情の中には時間も空間もない。だから人の本体も大宇宙の本体にも時間も空間もない。そういうものだと思うんです。

(※ 解説20)

 ここに初めて自然科学の先端である素粒子論が登場してきた。岡は晩年よくこの素粒子論に言及し、これが人類の物質主義という迷信を破る切り札になるだろうといっている。ここでは情緒がなぜ存在するのかという観点から、素粒子がバケツに水を入れて運ぶように、情緒を大自然全体に配っているのではないかという、岡独自のユニークな発想を展開している。

(※ 解説21)

 この私から見ても、自然科学は法則とエネルギーの2つで自然を説明しようとしている。しかし、それだけなら丸で死んだ世界ではないか。実際、我々が目にする自然は、生き生きと瑞々しい世界の筈である。だから、自然科学に何が足りないかというと、情緒が足りない。

 法則は知であり、エネルギーは意(力)である。そうすると自然科学には「情」の観点が欠けているのである。植物は勿論、石や水や風は、みな情緒ではないか。この情緒が「物」の本質なのである。だから岡はいうのである。「大宇宙の本体は情である」と。情の観点を欠いた自然科学に何時までも任せておくから、このように地球が荒廃したのである。日本人の自然観はこれからの人類にとって、非常に貴重なものとなるだろう。

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