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2023.08.20up

岡潔講演録(31)


「岡潔先生と語る 」(3)- 西洋の真似はやめよ -

【16】西洋人は東洋人になれるか

 (男性)私、最近シオノギという会社にはいって来た英国人に会ったんですが、英国人が日本で働いて日本の女性と結婚した場合、混血児が生まれますね。そういった時、西洋の考え方から東洋の考え方に一生懸命慣れようとする訳ですが、例えば過去に小泉八雲のような例がある訳ですけれども、そういった場合に、矢張り東洋の心と西洋の心というふうに、二つに分かれてしまう訳ですか。あるいは一緒になりますか。

 (岡)ええ、二つしかない。第二の心があるということを知らない人を西洋人、知ってる人を東洋人と、わたしはそう呼び分けてます。これが東洋、西洋の定義ですから、どちらかしかない訳ですね。

 (男性)そう致しますと、肉体とか血の問題はあまりこだわらない訳ですか。

 (岡)全然関係ない第二の心があるということを知ってるか知らないか、ということくらい大きな区別はない。これに比べると、他のことは云うに足りない。

 (男性)「さようなら」という言葉ですけれども、英語ではグッドバイとかバイバイと云いますね。このさようならという言葉には幾分か第二の心がはいっていると思うんですけれども、グッドバイとかバイバイと云った場合、どうなんでしょうか。

 (岡)このね、こういう話聞いてます。日本では、遠くへ旅に行くという人があった場合、知りあいとか縁者とかが遠い道を歩いて送りますね。こういう習慣がある。これがどうしても西洋人にはわからないのだ、そういうことを聞いたことがあります。だから別離というものがわからんのですね、はっきりわからんのですね。

 (男性)キリスト教の教える真理と仏教の教える真理とは、根本まで行ったら同じことだということでしたね。

 (岡)そりゃ神があるというところまで行けば正しい。あとはキリスト教はみな間違いを云ってるんです。間違いを云わなければ容易に信じてくれない人達を教える教えだから。

 (男性)根本において一緒であれば、西洋人の中にも東洋の心のわかる人があるということですよねえ。

 (岡)そりゃあ駄目ですよ無私とか無我とかいうことがわからなければ。無私というと、最早自分とは関係のないことと思うらしい。自我が主体になって働く心だけが心だと思うから、無私の行為などというのは、自分というもの、つまりその人とは無関係な行為だとしか思えないらしい。無私とか無我とかがわからなければ駄目です。

 (男性)同じ人類でありながら、それはどういう違いでしょうか、東洋人と西洋人というのは。

 (岡)単細胞からここまで向上して来たという、そういう大きな見方をすれば同じですが、細かく見ますと西洋人はまだ向上が遅れてるんです。だから西洋人はまだ赤ん坊のようなもの。もっと大きくならなければわかって来ない。赤ん坊は第二の心が始めから出来てて、段々第一の心が出来て行くほど大人になって行くんです。

 この例えの場合、第二の心が第一の心によく働いて – 大体前頭葉というところは、第二の心の文字板のようなところですよ。ところがその文字板へ、黒板へ、勝手気ままないたずら書きをする。年の小さい間はそうです。自我が勝手気ままにいたずら書きをしてよい ― いたずら書きって云わなくても、自我が欲するままに書いてよい黒板だと思ってる、それが西洋人です。だから学校の黒板を、いたずら書きをする為に有るのだとしかわからない赤ん坊のようなものなんですね。もっと大きくならなければわかって来ない。やがてはわかって来ます。

 (男性)それならば、東洋人であれば誰でもわかっていると云うことですか。

 (岡)そんなことわかってる。西洋かぶれした人はわからない。それだけです。自分の目で見ればわかる。自我に出来ることは、小便がしたいと思ったら小便することぐらいなものであると、繰り返し繰り返し云ってるんですが、そこが容易にわからないのは西洋かぶれしてる。自我かぶれしてるんです。素直な心になれば、成程そうだとわかるはず。

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