okakiyoshi-800i.jpeg
2017.02.18up

岡潔講演録(24)


「情の発見」

【2】 六道輪廻と易姓(えきせい)革命

 ところで、仏教はインドで説かれたものですが、インドにおいても中国においても、つまり仏教においても中国においても、知が中心だとみています。情、知、意と続いている心を自分と思うから、インドにおいては六道輪廻が起こる。また中国においては革命が政治の生命だというふうになる。情を自分だと思っておったら六道輪廻は起こりません。また、革命が政治の生命だということも起こりません。

 ところで、情を自分だと思えたら非常に都合がよい。情を自分だと思うなら、道徳は人本然の情に訴えれば自ずからわかる。何も教えなくてもわかる。非常に便利です。だのに孔子はこれを説いていない。また、情を自分だと思って仏道を修行すれば六道輪廻なんかしない。非常に早く修行が出来る。だのに釈尊はこれを説いていない。

(※解説2)

 ここも大変難しいところであるが、「情を自分と思えば六道輪廻は起こらない」と岡はいっている。このことに言及しているところは外にないから私なりに考えてみるのだが、仏教が重視する「知や意」は心の要素としては不透明さや固さという不純物があり、岡から見れば純粋な心「真情」ではないからである。だから、ぐるぐる回る輪廻、六道輪廻を繰り返すというのではないだろうか。

 では、易姓革命の方はどうだろう。易姓革命とは中国で王朝の「姓」が「()」わることであって、有徳の天子に王朝が交代することである。古来、中国ではこうした革命を繰り返してきたのだが、「知の誤りは知ではわからない、情でわかる」と岡のいうように、いったん政治が誤れば「知や意」では修復できないのである。しかし、中国はそれを知らないから、個人が交代する易姓革命でないと政治が刷新できないのである。

 一方、それと対象的なのは日本である。日本の天皇制の持続的な継承は素晴らしいものがあるが、実はそればかりではない、例えば日本の時代劇の結末を見てみると、大概主人公は自らの非を悟り深く「改悛」するか、または夫婦か親子の「情」の有り難さを再発見して涙を流すところで終るのである。今でも我々はこれにジーンとくる。

 これは個人が交代することよりも、心を入れ替える(これは本当は情が澄むということに外ならない)ことが全ての解決に繋がると日本人は思っていることになる。「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉もある。これは東洋にはない日本独特の人間観である。

 さて、ここで更に重要なところは後半にある。「道徳は人本然の情に訴えれば自ずからわかる。だのに孔子や釈尊はこれを説いていない」。これは東洋思想を突き破る、何とすごい言葉ではないだろうか。

Back    Next


岡潔講演録(24)情の発見 topへ


岡潔講演録 topへ