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2016.11.07up

岡潔講演録(22)


「1971年度京都産業大学講義録第16回」

【7】 大宇宙の本体は情

 この、犬とか猫とか人とかに現われてるものを『心』と云う。心あるいは『情』と云ってもよい。大宇宙にはこの情というものが絶えず働いてる。人に働いてるだけではなく、犬にも猫にも働いてる。大宇宙に情というものがあって、それが働くから生物なん、特に人なん。染色体で伝わるものではない。

 大宇宙の本体は情なんですね。大宇宙は情であると云いましたが、情が働く以上 ― この前自然科学は、自然科学して行くと、大宇宙には知や意があるという結論になってしまった。それを西洋人は知らないのだ、そう云いましたが、情、知、意みな働く。みな働くとすれば、大宇宙は一つのものです。それだったら『中心』がある。

 大宇宙の中心はどこにあるか。こういう問題がある。どこを見ても中心なんかありそうにない。どこにあるとしても予盾である。だから中心は無い。西洋人なら云うでしょう。今の日本人でもそう云いかねない。

 仏教はどう云ってるかと云いますと、大宇宙の中心は大宇宙の深みにあって、そこには『時間も空間もない』。大宇宙の中心は大宇宙の極く深いところにある。そこ迄くだって行くと、最早や時間も空間もない。

 これ、西洋人、百ペん逆立ちしたって、こんなこと云えるはずない。時間、空間無しには何も考えられないとカントに代弁させたのが西洋人。本当にその通り。想像もなにもできゃしない。

(※解説7)

 この岡のいう「犬とか猫とか人とかに現れているものを『情』という」とは、たとえペット好きな人でなくても直ぐにうなずくところではないだろうか。

 つまり岡は「生物の中核は『情』である」といいたいのである。こういう発言は私には当たり前のことだが、現在までの心理学も哲学も宗教でさえ、決して「情」だとはいっていないのである。

 かえって逆に西洋の生物学者がいったことを、私は今も忘れることができない。その言葉とは「生物が生きているというのは、あれは錯覚です」である。なんと我々の常識と違うことか。

 さて最近、私の家に小さな室内犬(舞という)が買われてきたのだが、その様子を見ていると「懐かしさと喜びの世界」に住んでいるとしか思えないのである。

 「大宇宙に情というものがあって、それが働くから生物なん」という岡の言葉は、ある種の実感をもって私に迫ってくるのである。

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