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2016.12.15up

岡潔講演録(21)


「1971年度京都産業大学講義録第11回」

【7】 不思議な赤ん坊

 人が不生であるということを見たかったら、赤ん坊を見るのが一番よろしい。幼児。生まれて40日もすれば目が見えますが、わたしの一番小さな孫は42日目に目が見えたんですが、おばあちゃんに抱かれてると、顔をじーっと見てにんまり笑った。そうするとおばあちゃんは「見えたか、見えたか」って云ってかわいがってる。そして「この子もう目が見えますよ」ってみんなに云って回った。それでわたしなんかも行って見たんですが。目が初めて見える。じーっと見てて見えると、懐かしそうににんまり笑った。もう心はちゃんと出来てるでしょう、人の心はちゃんと出来てるでしょう。それ以前は知りませんが、ちゃんと出来てる。

 今2年2か月くらいですが、もう大抵の人の心は備わってる。こんなもの短期間に出来るはずのものではない。これは始めからあるのがここへ来たんです。人は不生だからと云うことは、赤ん坊を見れば見るほど、そうだと断定せざるを得ない。

 みな赤ん坊を見ることを喜びませんが、赤ん坊くらい不思議なものはない。何が不思議かと云うと、人が不生である、これをいちいち教えるからです。大体じーっと見て、見えたらにんまり笑うということが既に出来ない。こんな心をどうしてつくりますか、育てますか。この心を失いさえしなければ、人は人の道を踏み外すことなんかない。戦争なんかも起こりゃしない。それがちゃんと出来てる。つい忘れるんです、忘れるんだけれども無いんじゃない。だから戦争はやはりいけないと云うような声が起こるんです。

 じーっと見て、見えたらいかにも懐かしそうに、にんまり笑う。単にそれだけでも、ちょっとそんなものつくられやせんでしょう。それ以後いろいろ見てみると、人の心というものは不生である、始めからあるのだ、と云うことは疑えない。

 赤ん坊を見て驚嘆しないようでは、その人は哲学が出来るなどと、哲学者だなどとはとても云えない。西洋の哲学者ははたして赤ん坊を見て驚嘆するだろうか。当り前だと思ってる。そこを当り前だとしたら、やることなんか無いはずです。

(※解説7)

 西洋はもともと自我(第1の心)の世界だから、あくまでも理性が働く成熟した「自我の成長」が人の目標なのである。つまり人の本質であり岡の強調する3才までの「童心の季節」など全く無視して、できるだけ早く「大人」になることが理想なのである。

 西洋の哲学者も心理学者も概して「童心の季節」を未熟、野蛮、未開と見るきらいがある。だから「自我の世界」をいつまで経っても反省し超えることができないのである。私の少ない知識からしても、西洋では「キリスト」の言葉だけが例外である。

 「汝等幼な児の如くならずんば、天国に入ることを得ず」

 日本には「三つ児の魂、百までも」という諺があるが、日本は人間観が西洋とは全く逆なのである。

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