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2016.12.15up

岡潔講演録(21)


「1971年度京都産業大学講義録第11回」

【3】 時間空間と視覚

 また、自然についても、ちっともわかっていない。西洋は自然科学というのを調べて大分よくわかって来たと思ってる。西洋の学問、思想は今では大抵みなこの自然科学の上に立ってると思う。自然科学はどう考えているかと云うと、始めに時間、空間というものがあると考えているに違いない。口に出しては云わんでしょうが、少しは云ってるかもしれないが、ともかく、時間、空間というものがあると思ってるに違いない。

 ところが、この時間、空間と云うのは、はなはだわからないもので、出来得れば時間、空間が存在するということを数学的に証明したいのだけど、今そういうことが出来ると思ってる本当の数学者は最早1人もいない。と云うのは、数学がそこまで進歩したという意味ですね。つまり自分の力の限界がだんだんわかって来た。

 で、時間、空間と云うのは言葉だけがあって ― 言葉よりもう少しありますが ― 空間は見えるからあると思う、時間は空間に直して云えるからあると思う。空間に直して云えるからあると思うと云うより、もう少し遡るでしょう。何か時間と云うようなものがあると思う。あると思うから空間に直して云い表わそうとするんでしょう。無かったらそんなことしない。だけど実際あると思ってるのは、例えば太陽とか、例えば時計とかがあるからあると思ってる。それで現在のところ、時間、空間というものは、視覚に支えられてあるんですね。

 じゃ、その視覚とはどういうものかと云うと、これはさっぱりわからない。視覚はともかく人類共通の1つの癖であるとでも云わなきゃ。視覚が癖って云うのはおかしいですが、視覚に基づいて思想等があります。人類は視覚を基にして思想するものです。だから視覚それ自身は癖だと云うようなもの。人類共通の癖。おかしな癖があるものだなあ、どういうつもりでこういう癖をみんなに持つようにしたのだろう?

 もうその時、言葉が無い。そんな時「造化」って云うんです。造化はどういうつもりでこういう共通の癖を人に持たせたのだろう?大体この癖はどこから来るんだろう?そうすると大分わかります。これは大脳前頭葉から来る。だから大脳前頭葉を取り外せば時間も空間も無くなる。

(※解説3)

 今まで折に触れて時間空間とは何かを考えてきたのだが、岡はここに至ってはじめて時間空間があると思うのは、「視覚」という人類共通の癖のようなものであるという発想を展開している。

 西洋人をはじめ大概の人は、時間空間ははじめから確固不動に存在するものと決めてかかっているが、実はそうではない。時間空間は「観念」の1種であって、その「観念」が生まれるのは子供の生い立ちでいえば満3才からである。それまではその子供に時間空間は存在しないという結論を岡は得ているのである。

 実際、人が生まれて目が見え始めると何が見えるかというと、ただボヤーッとした優しい「母親の顔」という「映像」だけではないだろうか。そこには時間空間や物質などというものは存在しないはずである。

 そうすると子供が生まれて直ぐに、その映像を映し出している実体は何かを考えると、それは東洋でいう「造化」というものを持ってくる以外にはないのではないか。これを岡は人類共通の「造化のテレビ放送」というのである。

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