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西洋の心の根底に潜む「意志」

2019年12月17日

数学者 岡潔思想研究会 横山 賢二

 さて、改めて西洋の浅い心である「自我」、つまり岡のいう「第1の心」の構造はどうなっているのかを調べてみたい。これは岡が29才の時、フランスへ留学して西洋にはじめて接してからの難問であったのだが、40年の歳月をへて1969年にいたって遂にその謎が解けたのである。不思議なことにこの時期は、日本が西洋文明を取りいれた明治の百年に当たるのである。

 そのヒントを与えたのは、西洋を代表する哲学者の1人であるショウペンハウエルである。そのショウペンハウエルの主著に「意志と現識(表象)としての世界」という2千ページにわたる大部の本がある。「現識(表象)」というのは、人の脳髄に映った世界像という意味である。岡は「現識」といっているが、本には「表象」と書かれている。

 その本の中でショウペンハウエルは「我々西洋人の世界像の背後には唯一絶対の意志がある。この意志を退けされば我々は死ぬし、それだけではなく世界はなくなる。しかし、そうすることが一番道徳的である」といっている。

 それを読んで岡は閃いたのである。「そうか」ついに西洋の心の根底を探り当てたと。そのキーワードがこの「意志」である。

 西洋の登山家に「なぜ山に登るのか?」と質問すると、「そこに山があるからだ」と答えたという話は有名である。しかし、我々から見れば、これは正確な答えにはなっていない。その答えとなるべきものが、この「意志」である。

 かれら西洋人の世界像の背後、つまり世界を見渡すその目差しの奥にこの「意志」、つまり外界と自分とが自他対立し、その外界をあくまでも征服しようとする「意志」が、無自覚的にではあるが強く存在するのである。

 だから日本や東洋とはちがい、そこに山があれば装備と技術を駆使して、その山の頂点を執拗に目差そうとするのである。無論、その「意志」を覆いかくす表面には西洋の文化、文明が示すように、豊かな喜怒哀楽の「感情」と精密な「理性」が働いていることに違いはないのだが。

 そして、これは登山ばかりではない。山のかわりに新大陸があれば、彼等はどうしただろうか。これも歴史が示すところで、新大陸の発見に憂き身をやつし次々と新大陸を発見すると共に、その大陸の無差別な植民地化に邁進していったのではなかっただろうか。

 そのニューフロンティアは今では地上の諸々の交通機関ばかりではなく、宇宙開発という美名のもと無限大の宇宙空間にまで拡大していっているのである。また一方においては、大陸間弾頭弾をはじめとする諸々の武器の開発がなかなか止まらないのであるが、それらの原動力を背後から支えているものが、この「意志」である。

 しかし、この「意志」の存在には、西洋人自身はなかなか気づかないものらしい。これは日本人がみずから持っている「情」の存在に気づかないのと同じように、それほど無自覚的に西洋人の心の底に潜んでいるものなのである。

 この事実にやっと気づいたのがショウペンハウエルということになるのだが、他の哲学者もうすうす気づきかけていて、西洋でもう1人この「意志」に言及しているのは、梅原猛「日本文化論」によるとハイデッガーだということである。

 ともかくショウペンハウエルは「この意志を退けさることが一番道徳的である」と明言したことは、西洋人としては実に謙虚で潔い。しかし、これは我々が言及するまでもなく、西洋哲学者による西洋文明の自己否定ということに外ならないのである。

 岡が日本人の心の底に第10識(真情)を発見したことは、人類の未来を変える20世紀最大の発見であると私は思っているのだが、岡が西洋人の心の底にこの「意志」があると指摘したことも同じく、20世紀までの時代の原理を大転換する人類史上まれにみる大発見であると私は思っているのである。人類の行きづまった現状をみると、むしろ後者のほうに早く気がつくことが、より重要であるのかも知れない。

参考資料 「 神々の花園 」 岡潔著 1969年

    <3> 欧米人の脳髄に映った世界像

    (1)

 十九世紀のドイツの大哲学者にショーペンハウエルという人がいる。その主著『 意志と現識 ( Vorstellung) としての世界』 は、明治四十四年に姉崎正治先生によって翻訳せられて博文館から出ている。博文館はもうないだろうが、この本は今でもよい図書館へ行けば読めると思う。二千ページほどの本である。

 ショーペンハウエルはここで、西洋人やギリシャ人の脳髄に映った世界像を克明に描写したのち、こういっている。

 われわれの意識の背後にあって、各人にこの世界像をあらしめているものはただ一つの「意志」である( ショーペンハウエルの形而上観 ) 。かようなものは退けてしまって、この世界像を消し去るのが、そうするとその人は必然的に死に、世界も消え去るのであるが、それがいちばん道徳的である。

 どうしてこんな、ひどいことになってしまったかを説明しよう。

 『 曙 』 でいったように、人には心が二つある。(そして二つしかない。)

 第一の心は前頭葉に宿っている。ギリシャ人や欧米人は、ごく少数の例外を除いて、この心しか知らない。だから心理学はこの心しかとり扱わない。この心は私を入れなければ動かないし、わかり方は必ず意識を通す。この心は、心理学は知らないだろうが、物質的自然(自然科学が研究対象としている自然) を包んでいる。

 第二の心は、頭頂葉に宿っている。無私の心(私を入れることの出来ない心 )であって、わかり方は決して意識を通さない。この心の中にはすべてのときがある。しかし空間も自他の別もない。第一の心は、この第二の心に依存してある。

 第二の心を自分だと気づいている人を目覚めた人といい、第一の心の描く妄像を自分だと思っている人を眠れる人という。

 日本民族には、いかなる地上の日本民族でも、目覚めた人はごく少いが、眠れる人でもその眠りはそう深くなくて、第二の心のあることを薄々知っているのである。そしてこれを「 まごころ」 と呼んでいる。

 しかしギリシャ人や欧米人は眠りが非常に深くて、第二の心のあることを全然知らないらしい。それでショーペンハウエルの詳細に描いた世界像は、こんなにもきたなく、読むだけでも呼吸(いき)がつまりそうなのである。そして、必然、こんなものをあらしめている意志は退け去るのがいちばん道徳的だということになったのである。

 つまりかれは生涯かかって、小乗仏教の絶対的な賛美者になったのである。その徹し方は見習うべきである。

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