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2013.06.15up

岡潔講演録(6)


「歌で読みとく日本歴史」
第2部 「神代(かみよ)の文化」
「昭和への遺書」岡潔著

【8】植物の喜び

 もう一度言うと、たとえば曇り空がふとさけて日がさっ と射すと、植物の花々が一斎に喜ぶ。そうすると自分が嬉しくて仕方がないのであろう。

 然しこの「何となくわかる」という所は人によって相当 差があったであろう。いつも例に引くように、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、自分が 生きていては自分が天皇にならなければならないという理由で、さっさと自殺しておしまいに なった。無比の崇高さである。これは真我の人でなければ出来ないことである。解脱した人と いうと一層よくわかるだろうか。勿論仏教はまだはいって来ていなかったのである。だから神 代には真我の人も相当いたと思う。

 然し神代の世の色どりは何だか前に言った植物の喜びを 以て言い表わしたい気がする。本居宣長も植物の喜びを以てたとえている。

  敷島の大和心を人問はば
  朝日に匂ふ山桜花

(※解説10)

 この「植物の喜び」とは、まことに良い言葉を岡先生は 見つけたものである。日本文化の本質をピッタリと言い当てた言葉ではないか。考えてみれば 岡先生の高く評価する万葉人の世界も植物の世界だし、芭蕉の世界も植物の世界である。いわ ゆる風情や情緒といわれるものは、概して植物によって多く表現されるのではないだろうか。

 そこへいくと、この私のサイトを飾ってくれている私の 恩師である大野長一先生の絵の数々は、その「植物の喜び」である日本本来の情緒を余すとこ ろなく表現した、今日では稀にみる作品ではないかと私は思うのである。

 さて、岡先生の晩年の言葉に「造化は人と植物とを造ろ うとした。弱肉強食の動物はその失敗作である」というおもいしろい言葉がある。「だから人 は植物のようなものである」と岡先生は結論づけているが、我々もなるだけは動物ではなく、 植物をイメージできるような人になりたいものである。

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