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 2012.12.12 up

岡潔講演録(4)


「自然科学は間違っている」(1) 岡潔著

【 6】 唯識論の人間観

それで今度は方向を変えて、仏教に聞いてみましょう。

仏教に聞く聞き方ですが、これから聞きますが、この聞き方をお聞きになったら、人が如何に無知であるかわかるでしょう。仏教にこう聞く外ないのです、何が一体どうなってるのですかと。他に何ともしょうない。そうしますと仏教はこう答えます。

仏教は人の心を層に分かって説明する習慣があります。一つ一つの層のことを識といいます。知識の識です。で、心の一番奥底を第9識といいます。

で、一番初めに第9識というものがある。仏教に聞いてますが、第9識は一面唯一つであり、他面一人一人個々別々である。この一人一人個々別々であるという方面から見た第9識を個といいます。個人の個です。

第9識にはこの関係があるだけで、他に何もない。時間も空間も自他の別もない。それが「もの」の始まりです。そういう。

以下、その各々の個について言って行きます。第9識に依存して第8識がある。ここには一切の「時」がある。しかし、他には何ものもない。

第8識に依存して第7識がある。ここに致って初めて大小遠近彼此の別が出る。彼此の別の彼此とは「かれこれ」と書く。彼此の別というのは自他の別のことです。

この第9識、第8識、第7識の現れが自然であり、人々であり、その一人が自分であると、こういうんです。

今、言いましたことのうちで、第8識と第7識との分類法は私、少うし変えました。これは変えた方があとで都合がいいからです。しかし、これは単に分類を変えたんです。つまり言葉だけの問題です。言葉が違っているというだけです。あとは仏教は皆こういってるんです。その点を別にすれば、仏教は皆、今いったようにいっています。今いったことに反対する宗派はあるまいと思う。

(※ 解説7)

岡の仏教観では、在来の仏教は迷信や現世利益の要素が強いので、あまり採用はできないが、唯一光明主義が説く唯識論(心の構造)と無差別智(4種類の直観)は、真の人間観、自然観を説明するに不可欠のものであるとして、当初仏教を人類の持つ最高の哲学であると認めるのですが、岡の境地が次第に進むにつれて晩年中期には、その仏教哲学にも限界があるという指摘をするようになるのです。

しかし、ここでは西洋の世界観、特に自然科学の基礎である物質主義の誤りを指摘できるのは、仏教で十分であるといっている。というのは、西洋ではギリシャからこの方、「物質」から全てを説明しようとしているように見えますし、仏教は逆に自然は映像であるという前提のもとに、「心」と「直観」から全てを説明しようとしているからです。

特に岡の仏教理論は、難解といわれる光明主義をわかりやすく噛みほぐし、更に自然科学の性格も十分に取り入れた表現となっていまして、岡は「今いったことに反対する宗派はあるまい」と文中でいっていますが、逆にこれほどまでにシンプルで科学性に富んだ仏教理論を、私は他に見たことがありません。

岡は晩年、まだまだ深く心の世界へ入っていくのですが、ここを十分理解することがその出発点となりますので、ここは岡の晩年中期の入口という大変重要な地点です。(参照、私の心の構造図)

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