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 2012.10.21 up

岡潔講演録(1)


【5】 公害という問題

 それ、わかるでしょう。これがわかっていないから、知的にいっても今の教育は全然駄目なんです。上滑りしてしまって、形式しかわからない。本当にわかったんじゃない。「悟る」というのは本当にわかって自覚する。これは情の目で見極めることです。

 芭蕉は「散る花、鳴く鳥、見止め聞き止めざれば留まることなし」といっていますが、見止め聞き止めるのは情の目で見極めるのである。情の目で見極めるのが「悟る」「自覚する」ということです。そうすれば存在して消えない。

 存在を与えているものは情だけです。これも銘々経験があるでしょう。深い印象とか深い感銘、これは決して消えないでしょう。生涯消えないでしよう。こんな力を持っているのは情以外にありません。

 人の本体は情であると知ることは、非常に大切なことなんです。大勢の人がそれがわかったら、例えば教育はいっぺんに改められます。そうすれば余程変わって来る。そうする以外にやりようがない。

 公害という問題が欧米から輸入されて、日本で大分やかましくいわれている。日本人は、人は情の動物であるということは、自覚なしにだけどよく知っている。それと共に、もう一つ詰まらないことを思っている。文化とは外国から入って来るものだと思っている。外国から入って来ないものは文化にあらずと思っている。

 それで公害という言葉、これは文化の一種ですね。外国から入って来て、日本で大分やかましくいわれている。外国にオリジンがあるから、こんなにジャーナリズムが取り上げたんですよ。しかし公害、さっぱりうまくいかない。何故うまくいかないかというと、情の濁りから取り去らないからです。単に濁りだけじゃありませんが、情からきれいにして行かないからうまく行かない。

 これは二つの点でうまく行かないのです。一つは情が濁っていますから、すぐ自己中心の考えに走る。それで企業が公害を取り除くことに反対します。政府だって、やはり産業優先というようないことを考える。一つはそういう害がある。

 もう一つは、情が生き生きと働かなかったら、存在というものがない。それで淀川を見ても、これはひどい濁りだなあと思っても、それが見えなくなったらけろりと忘れる。だから公害だって、みんなが絶えず心に留って、気に掛かるという風じゃない。

 この二つからうまく行かない。それで情をきれいにし、よく働かすようにするより仕方がない。

(※ 解説12)

 ともかく我々は今日まで「知」というものに最大の力点をおいてきまいた。しかし岡は当初から「情緒」という言葉を使い、情の分野を探っていったのです。ところが1968年に中国を代表する思想家である胡蘭成こらんせいと知遇を得ると、その胡蘭成は「知が大事だ、知が大事だ」というものだから、岡はいっぺんにわかったのです。そうだ、東洋は知の文化圏で、日本は情の文化圏だと。

 だから日本人が知恵と思っているものは、実は情の働きだったのです。それが証拠に、日本の伝統的な物作りを見てもわかるように、我々のいう知恵というのは原則化、マニュアル化できないのが最大の特長ですが、知だったらマニュアル化できるのです。

(※ 解説13)

 また別の角度から見てみると、東洋には東洋哲学というものがある。ところが日本には日本哲学と呼べるようなものはない。道元の正法眼蔵が唯一の例外かも知れない。それは何故であるか。日本の古典は古事記、万葉、芭蕉であるが、これらは決して哲学とは呼べない。これらはいってみれば「情の表現」であって、哲学という「知の表現」ではないからではないか。私がこのことに何となく気づいたのは、岡潔と出会う前の高校生時代であった。

(※ 解説14)

 公害という問題を物理的、科学的に解決しようとする試みはいろいろある。しかし、岡のように心の構造から公害の解決策を提示したものを私は外に知らない。人の心が変わらなくて、解決できる問題は1つもないのだと岡はいう。ましてや金や技術の問題ではない。それらは対処療法にしか使えない。

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