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 2012.11.08 up

岡潔講演録(3)


「一滴の涙」 岡潔著

【2】 東洋の第2の心

で、本当は第2の心のあることを知らないのを西洋人と云い、ほのかにでも知っているのを東洋人と云っているのです。それが定義になる訳ですね。特に日本人は第2の心のあることが非常によくわかる。もし、西洋かぶれさえしてなかったら、心が第1の心だけしかない等と、そう云うはずがないと云うことが直ぐにわかる。

と云うのは日本人は、大体第2の心の中に住んでて、時々第1の心が現れるだけです。例えばですね、人は本当の友情と云うものを日本人知ってるでしょ。本当の友情と云うのを感じるのは意識を通して感じるんじゃないでしょう。これは第2の心が感じるんですね。私と云うものも入らない。又私の叔父の友人に中学校の先生がありました。だから戦前の中学校の先生。この先生が歌を詠んだ。こう云う歌です。

  むかわずば淋しむかえば笑まりけり

  桜よ春のわが思い妻

こう云う意味の夫婦仲とか、或いは人と桜の間とかこれは意識を通さないでわかるでしょう。第2の心がわかるんですね。それから人の真心に感銘した経験を持つ日本人は多いでしょう。その時、人の真心に感銘する心は無私だったでしょう。それから人の真心に感銘する感銘の仕方は、意識と云うものを通さなかったでしょう。

その他芭蕉は、秋風はもの云わぬ児も涙にて、と云ってますが、秋風が吹くともの悲しいですね。このもの悲しいと云うのは私がもの悲しいんじゃないでしょう。つまり喜怒哀楽じゃないでしょう。自からもの悲しいんでしょう。又、もの悲しいと意識しないでしょう。直下にもの悲しいんでしょう。だからもの悲しさも第2の心がわかるんですね。時雨が降れば懐しい。この懐しいも又第2の心が直下にわかるんですね。

(※ 解説3)

「第2の心は意識を通さない」と岡はいう。

私の心の構造図を参考にしてもらえば更にわかりやすいと思いますが、「意識」というのは唯識論では、第6識といって、第1の心の中にあるもので、いわば第1の心のセンサーの役目をするものです。

デカルトはさすがに西洋人らしく「自分とは何か」を徹底的に疑ってみて、ついには「我考える、故に我あり」といったのですが、この時の「我」というのが何かという問題もさることならが、この「疑う」ということが「意識を通して考える」ということで、前頭葉の第1の心の働きです。

一方、岡は「真の友情とか秋風とか雨の趣きとかは、本当にあるかと疑って見てみると消えてしまうものである」といっている。そうすると第1の心の「感情」は意識を通してわかるものであり、第2の心の「情緒」は意識を通さないでわかるものであるといえると思う。では、「意識を通さなくて何でわかるのか」と聞かれると、岡は「実感でわかるのだ」と答える。そして、西洋の自然観と日本の自然観とが微妙に違っているのは、この意識を通すか通さないかの感性の違いによるのではないかと、私は思うのである。

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