okakiyoshi-800i.jpeg
2017.11.09up

岡潔講演録(28)


「真我への目覚め」

【13】 天眼と六道輪廻

 仏教では、〝五眼(ごげん)〝、ということを言います。五眼というのは、下から数えて、肉眼(にくげん)、これは肉眼のことです。その上が、天眼(てんげん)、その上が慧眼(えげん)、その上が法眼(ほうげん)、その上が、仏眼(ぶつげん)、こう言います。簡単にいえば、無差別智の働きで、このうち、法眼と仏眼とは仏を見る眼です。不完全には法眼、完全には仏眼で見ます。

 仏は自然界にはお住まいになっていない。仏のお住まいになっているところを心霊界というのです。この心霊界にお住まいになっている仏を、法眼とか仏眼で見ることを見仏という。決して、自然界にお住まいになっている仏を肉眼で見るのではない。今、ここで言いたいと思っていることは天眼のことです。

 仏教で、六道輪廻(りんね)ということを言う。6つの道をぐるぐる廻る。廻る六道とは、上から数えて、天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道というのである。このうち、畜生道と人道とだけは、肉眼でわかるが、他の四道は肉眼では見えない。これを見る眼は天眼です。この六道輪廻というのは、ごくまれに出る、といっても、今から数えると、相当数にのぼっている高僧達が、天眼によって、実際に御覧になったところを書き記しているのであって、架空のことではない。道元禅師は、生粋の日本人らしい日本人ですが、六道輪廻が本当にあるということを信じなければいけない、と厳しくおっしゃっている。

(※解説13)

 「六道輪廻は天眼という眼で見える」という風に岡はいっているが、その「六道」は今の我々には甚だなじみの薄いものである。しかし、これも心理学的に「知情意」で説明できるのである。特に天道、人道を除く四悪道を対象にとってみる。

 先ず修羅道であるが、修羅道はこの世は本来激しい闘争の世界であるというのである。真我の世界から見ると、この世は助け合いの世界であるが、その逆である。この対立、競争、闘争は「意志」の世界であるから、修羅道とは「意志の異常」の世界なのである。

 次の畜生道であるが、これは目にみえる動物界のことである。しかし心理学的に見れば、後に出てくると思うが哺乳類の特徴である、自分と自分の家族以外に対しては全く無関心であること。徹底した「マイホーム主義」のことである。

 人は本来わけへだてなく人の喜びを喜びとし、人の悲しみを悲しみとするものであるが、その感性が全く働かないのである。だからこれは「情の異常」といえるのである。

 次は餓鬼道であるが、岡はある録音でこういっている。「いま金餓鬼、ボス餓鬼が非常に多い。大抵、金餓鬼、ボス餓鬼は色餓鬼を兼ねています」と。笑ってしまいますが、これは小我の価値観(知)である金銭欲、権勢欲、性欲を人生の最大の目標とすることであって、これを岡は「知の異常」というのである。

 最後に地獄道であるが、これは一言で「知情意の全てにわたる異常」といえるのであって、特に「非情」と「残酷さ」がその特徴である。

 猶、天眼であるが、ここで岡は「高僧達が、天眼によって、実際に御覧になった」といって、天眼を相当高い能力としているようだが、これより4年後の1971年には大分ニュアンスが変わってくる。次にそれをご紹介する。
「葦牙」第4号より。

 (質問) 魂というのは、特殊な能力を持った人に見えるのですか。

 (岡) 天眼で見えます。そんなに高い能力ではありません。あれは極低いものです。

 (質問) 透視というのがありますね。

 (岡) 天眼です。ああいう動物的能力を喜ぶ癖が人間にある。それが迷信をはびこらせる。困ったことです。

Back    Next


岡潔講演録(28)真我への目覚め topへ


岡潔講演録 topへ