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2017.07.19up

岡潔講演録(27)


「情の構造」

【11】 大宇宙の中核は真情(2)

 大宇宙の中核は真情である。人の中核も真情である。2つの真情は、いつでも合一して1つになりますから、同じか別かと、そういう問いは意味のないことです。人の中核も大宇宙の中核も同じく真情、情です。それから、人の場合には、その外側に真如、アラヤ識が出来、それからマナ識が出来て、そして肉体がついていくんです。

 自然の場合には、途中はよくわからないが、最後は自然界という映像が出来てくるわけです。これが肉体に相当するわけですね。途中はよくわからない。何故かと云うと、情と情は重ね合わせて1つに出来ますが、それから後の人の心の部分は濁ってまして、完全に重ね合わせて1つにするということは出来ませんから。

 しかし、真如だとまだその濁りが少ないから、だいたい重ね合わすことが出来るかもしれない。仏教は、大宇宙の中核は真如であると云っていますが、ここまでぐらいは認めてもよいでしょう。

 その次のアラヤ識となると、これはもうはっきり、空間というものもアラヤ識という心の中に出来てきますし、とても重ね合わされやしないから、どうなっているのかわからない。わからないが、人が自然を見る時、一口に云えば、アラヤ識の中で自然を見ているんだけど ― 仏教はそう云っていますが、これはだいたい正しいでしょう。

 まあともかく、途中はよくわからないが、真情が人の場合も大宇宙の場合も実在で、大宇宙の場合について云うならば、これが物質化して映像となり、これが物質的に表現されて、その最後のものが自然となって現われる。そんなふうらしい。

(※解説11)

 ここは「真情」の世界からみた人や宇宙の成り立ちを説明しているところである。人も宇宙も根底には「真情」がある。それが深層の心の順に従って外に表現されて、最後は人の肉体や目にみえる自然の風物に現れるというのである。これは現在の我々が採用している世界観とは正反対ではないだろうか。

 我々は目にみえる肉体の中に心(マインド)が宿ると思っているし、自然の風物に「情緖」が付着していると思っているのではないだろうか。物質主義だから、そういう見方になるのである。

 さて、先の人や宇宙の成り立ちであるが、私は以前から1つの略図を考えている。それは岡がいうように宇宙の中核は「真情」であるが、「情-知-意」とつづくのが岡の心の原理であるから、「真情」の次の「真如」は「知の世界」となり、ここは「法則の世界」といえるだろう。次の「アラヤ識」は「意の世界」となり、ここは「エネルギーの世界」となりそうである。

 この「法則」も「エネルギー」も目には見えないものであるが、それに心の最奥底からの情緖の「瑞々しさ」が加わって、最終的にそれらが時間空間のあるスクリーンに投影され、遂には我々が経験する目に見える自然ができていく ― のではないかと私は考えているのである。

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