okakiyoshi-800i.jpeg
2017.07.19up

岡潔講演録(27)


「情の構造」

【5】 仏教と儒教の限界

 日本での仏教を修行する人々の大多数をみてみますと、仏教を修行すると人がだんだん偉くなっていく。階段をのぼるように偉くなっていく。一番偉くなったのが仏である。仏は十大力といって非常な力を備えるべきだ。まあ、こんなこと思って修行している人が一番多いように見える。

 今の日本の有様ですが、新顔の人がみえると、あの人はどれくらいの位置の人か、つまり課長さんか局長さんかなあ、月給はどれくらいかなあ、そういうことすぐ知ろうとする。そして、だいたいそういうふうな物差しが出来ていて、教育ママはその物差しの、つまりよい位置へいって、余計月給がもらえるようにと思って、子供に勉強を強いる。子供は子供で、社会へ出てから、だんだんよい位置へ年と共に昇っていって、月給も増していくということを尺度にしている。

 そうすると、今の日本人は、人生というとだいたいこんなふうにして云い表わされてしまう。これが如何に愚劣な人生であるか、あなた方にはいっぺんにわかってしまう。ところが、こんな下地をつくったのは、1つは仏教が念入りに教えたんだし、もう1つは儒教です。

 孔子は「身を立て名をあげ、もって父母の名をあらわす、これ孝のおわりなり」と云って名誉心をあおった。のみならず、孔子が王道政治と云って大切にしたのは堯、舜の政治ではなく、周の政治の仕方。周は漢民族ではなく、西方の蛮族。その風習は先祖の名をあげるということを、非常に大切にしたらしい。

 ともかく明治の頃は、教育は立身出世主義で勉強させた。だから人はだんだん偉くなって、偉くなるほど月給のあがっていくものと、こう思っているんですね。これが生きた人というものの尺度になっているらしい。

(※解説5)

 東洋の仏教や儒教は我々現代人にはなじみの薄いものではあるが、実は「第2の心」の世界観から生まれてきたものであって、「第1の心」の西洋思想に比べればより深い世界観をもっていると岡は考えてきたのである。しかし、第10識「真情」を発見してからは、それら東洋の仏教や儒教でさえ否定的に見はじめるのである。

 概していえば、西洋は第1の心の「力の思想」、つまり「権力主義」が底流にあり、東洋は第2の心ではあるが「知」の限界からくる「偉さ」を重視する、いわゆる「権威主義」が底流にあるのである。この東洋の「権威主義」は日本とはどこやら違う、現在の中国や韓国の国民性を見てもわかるのではないだろうか。

 そして、このことは岡は文献による文字の解釈からわかったのではなく、中国人の友人胡蘭成と接して彼が「知が大事だ、知が大事だ」と岡にしきりにいったことに端を発する。そういう目で仏教の方を見てみると、やはり「知」に重点を置いていることがわかったのである。

 つまり東洋の仏教も儒教も、ともに「知」からくる「偉さ」を重視するという欠点があることが、岡にも初めてわかってきたのである。実際、今の日本の仏教系、儒教系の団体を見てみても、日本特有の「情」の要素は潜在的にあるものの、「偉さ」や「権威」を前面に立てての運営が目につくのである。

Back    Next


岡潔講演録(27)情の構造 topへ


岡潔講演録 topへ