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2017.05.02up

岡潔講演録(26)


「情の世界」

【27】 日本舞踊

 自分の身辺を自分の情の目で見極める、これを認識という。芭蕉は「散る花、鳴く鳥、見とめ聞きとめざればとどまることなし」と云ってますが、何んで見とめ聞きとめるかと云うと、真情の目を開いて見とめ聞きとめる。これを認識と云うんです。

 認識するという言葉、西洋人は本当の意味を知らない。本当にそれをすることが出来ない。だから自然科学は、自分の出した自然科学の結果がわからない。つくることは出来ても、みることは出来ない。認識出来ない、観念したってわからない。

 仏教は観念です。だから釈尊が云ったことも、釈尊が勝手に云ったんです。それをそのまま云ってるんです。本当にそうか見直そうと思えば、観念を認識に変えていかなきゃ。

 認識は後頭葉で出来るんですね。自覚は前頭葉に映してみるんですね。認識と自覚をやらなきゃいかん。認識し自覚するということをやってなかったら人には話せない。認識し自覚するには、自分の身辺をよく見直すことです。

 まあ、本は書きます。何度も繰返して読んでもらったらだいぶんわかる。そこでとどまってはいけない。自分が見て、自分がよくわからなきゃ。そしたら本当にわかってきますから、話せるようになる。

 自我には幸福を幸福と思う力がないのです。だから刺激とか興奮とかを追い求める。幸福を幸福とわかる力がないんです。

 自分が喜ぶ、人が悲しむということ、一応前頭葉で自我が喜び自我が悲しむということになっていますが、自我を強く入れた喜びは喜びではない。自我を強く入れた悲しみは悲しみではない。

 喜ぶ悲しむということは、情が喜ぶ悲しむんだから、それは前頭葉の感情ではないということ、日本人ならわかる。西洋人にはわからんでしょうけど。西洋の映画をみてみますと、感情の世界でやってます。だいぶん違うんです。

 日本舞踊と西洋舞踊、見るからに違うでしょう。日本舞踊は頭頂葉がじかに運動領に命令する。運動領は全身の意志的活動をつかさどるところ、西洋舞踊は頭頂葉から一度前頭葉を経て、運動領に命令する。だから西洋舞踊は意識的に踊る。日本舞踊は無意識的に踊るとなっている。これくらい違う。

 だいたい日本舞踊のような生き方をしているんだけど、西洋舞踊のような複雑なのが今の日本人の生活。それを自覚しなきゃいけない。自意識過剰になっては、幸福などというものはないでしょう。

(※解説27)

 ここはこの話の結びの部分だから、岡の言葉の宝石が随所にちりばめられているところではあるが、岡は先ず「自分の身辺を自分の情の目で見極める、これを認識という」といって、我々日本人が自らの日常の身辺を見詰めなおすことが、これからの人類の方向性のヒントになると見ているのである。

 さらに「認識は後頭葉で出来るんですね。自覚は前頭葉に映してみるんですね」といっている。最晩年の「春雨の曲」ではこれが更に精密なメカニズムになるのだが、これが岡の大脳生理の最終的な結論といえるものであって、後頭葉の「認識」と前頭葉の「自覚」をこもごも踏んで、これから人類は長い旅路を歩んでいくことになるのである。

 さて、岡の話の結びは「日本舞踊」で終わっている。岡は別のところで日本舞踊と西洋舞踊とを比較して次のようにたとえている。「西洋舞踊は自分が踊る。しかし、日本舞踊は踊りが踊る」と。実にうまい表現である。

 これは日本の国技、相撲でもいえることであって、「自分が相撲を取るのではない、相撲が相撲を取るのである」。たとえ相撲に勝ったとしても、明らさまに喜ばないところが、それを証明しているのではないだろうか。まさに「日本の心」は日本文化の至るところで生きているのである。

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