okakiyoshi-800i.jpeg
2017.05.02up

岡潔講演録(26)


「情の世界」

【23】 前頭葉を使わない日本人

 本当の自分とは情だっていうことだって、すぐにわかりそうなものだのに、これがわかるのは日本人だけっていうのもおかしい。無意識的にそう思って生きているなら、意識的にわからないっていうのも不思議です。外国から取り入れた文化だから、絶えず間違ってる。が、間違っていると云った日本人、1人もいない。それも不思議。

 前頭葉をほとんど使わないんだと思う。頭頂葉、後頭葉でわかっても、その影を前頭葉に映してみなきゃ、はっきりこれはこうだとは云えない。前頭葉というのは、映写幕としては使わなきゃ困るんです。これがないと、紙の上へ書いてみないようなものだから、ものによっては書いてみないとよくわからない。ちっとも使わんらしい。

 理解、理解ってよく云いますが、理解というのは前頭葉を使ってわかることですが、それもいちいちするんじゃないんでしょうね。どうするのかなあ。後頭葉式に前頭葉のことわかってるんだろうなあ。

 何しろ外国の文化って云ったら、もう、すっかり丸呑みにして、批判を加えないということしかやっていない。儒教も仏教も、しばらくやってみると、あれで修行さすと、どうも陰気くさい。情を粗末にする。

 万葉といろどりが違うと云って、宣長あたり気にいらなかったんでしょう。まあ、あのへんが一番批判精神を働かした。そこでも、はっきり情が本体だと云ってないというとこまでは見極めてないんです。

 宣長、無茶も云ってますよ。本能とか、特に性本能なんていうのは、前頭葉へ働く意欲なんです。これは抑えなきゃ困る。そんなもの、抑えることいらんと云ってるから、宣長はね。(笑)

 この性本能を感じる主人公は、真情ではなくて自我ですからね。これは抑えなきゃいけない。そういうところで多少無茶さえ云っている。(笑)

 釈尊はそれがみないけないとみて、一口にみな抑えっていうようなこと云ってる。禁欲って云ってますが、情をみな抑えよと云ってるんですね。そうすりゃ知が働くっていうようなこと云ったり、それうそだからその通りになりゃしません。

(※解説23)

 前頭葉は主に数学などで使う頭なのだが、岡は前頭葉の働きを実にうまくたとえている。前頭葉は「手鏡」のようにして使うのである。見たいところや知りたいところに「手鏡」を近づけてその映像を映し、その映像を精密に検討するのであると。

 しかし、日本人は後頭葉でその映像の雰囲気さえつかめば、それで十分なのである。あとはその雰囲気を側頭葉の言語中枢で練りあげて、和歌や俳句といういわば「標語」にするだけである。

 しかし、今は前頭葉を精密に使う西洋文明の時代であるから、それだけでは困るのである。日本人も西洋にならって前頭葉を本格的に使わなければならないのであるが、しかしそれは西洋が前頭葉を使って作りあげた西洋の世界観の中で、相変わらずその真似をしているだけであって、自らの前頭葉を自主的に使おうとはしていないのである。

 岡によれば西洋と日本の世界観は全く違っている。否、全く逆といってもよいのだから、日本人が前頭葉を自主的に使いさえすれば、西洋とは全く別の世界観が生まれるはずである。それが人類の新しい時代を開く鍵となるはずである。しかし、現実は日本人はいまだに余り前頭葉を使おうとはしていない。

 では、日本人は前頭葉のかわりに頭のどこを使っているのか。それは側頭葉という機械の座である。その働きは知覚(感覚)、記憶、機械的判断、言語中枢などであって、真似るだけなら機械で十分できるのである。

Back    Next


岡潔講演録(26)情の世界 topへ


岡潔講演録 topへ