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2017.05.02up

岡潔講演録(26)


「情の世界」

【22】 情は液体

 流されるもなにも、情は液体のようなもの。だから知のようなわけには出来ない。自分だけが幸福になろうとしても、これは出来ない。ここまでは自分で、そこからはそうじゃないという境い目、これは出来ないんです。情というのは、真情としても、なおそういうものです。宇宙の存在あるは情あるによる。

 なお、外界が時間空間の中にあるとみえるのは、前頭葉あるによるんですよ。この鏡に映すと、総て時間空間というふうなものの中のことになってしまう。これ、前頭葉に映した影です。

 カントなんか、時間空間は先験観念である、自分はこれなしには考えられないと云っている。西洋人は前頭葉の世界のことしか考えられないんです。

 ともかく、前頭葉が働いてわかるんだったら意識を通す。ところが日本人は、意識を通さないでわかるという雰囲気の中にだいたい住んでいる。秋風も、時雨のもの懐かしさも、みな意識を通しゃしません。

 座の空気がわかるっていうのは、意識を通しません。その座の空気がわかるっていうようなこと、日本人はすぐに云います。西洋人、云わんでしょう。これは意識を通さずにわかる。西洋人にはわからない。

(※解説22)

 西洋は合理主義であり、東洋は神秘主義であるとよくいわれる。西洋では1+1=2であるが、東洋では1+1=1という場合もあり得る。例えば2つのコップの水を足した時などである。これを仏教では「不一不二」というのだが、今まで仏教は「不一不二」という言葉を使いながらも、それを十分には説明できなかったのである。

 それもそのはずで、仏教は岡がいうように「知と意」を重視して、「情」を軽視する。しかし、「情」のみが液体の性質を持っているのだから、仏教は「不一不ニ」を完全には説明できるはずはなかったのである。「日本の心」を徹底的に調べた岡によって、心の根底は液体の「情」であるとわかって初めて、心の世界が「不一不ニ」であると最終的に説明がつくのである。

 更にまた、「ところが日本人は、意識を通さないでわかるという雰囲気の中にだいたい住んでいる」と岡はいっているが、これは日本文化を知るうえで極めて重要なところであって、日本文化が西洋人にわかりにくい要因の1つはここにあるのではないだろうか。

 日本文化の粋である「もののあはれ」や「わび」や「さび」といったものは、いわゆる情緒の文学的表現であって情緒は「意識を通さない」ものであるから、実感のみあって口ではいえないものである。岡はこの辺のところを大脳生理学的に解明していて、それは講演録(18)「創造の視座」の(20)「情緒と心眼」等に詳しく出ている。

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