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2017.03.13up

岡潔講演録(25)


「情を語る」

【1】 情とは何か

 「自分とは何か」っていうのは非常に難しい問題ですが、しかし人は自分とは何かなどと言葉に出して云わないけれども、それが自分だと思ってるものがあるらしい。その自分とは何かと思ってるそのものが世界の各地で違ってる。

 心を知、情、意と分けますが、日本人はその「情」を自分だと思ってるらしい。私は勿論そうです。ひとも皆そうだし、歴史をみても、どうもそうだと思う。情は自分だと、日本人は皆そう思う。

 知や意がいくら説得しても、情を説き伏せることは出来んでしょう。知的にはこうだ、また意志的にはこうすべきだというふうな時も、情がそれを悲しむ時にはどうしようもありませんね。それでもなおかつ知や意の云うところに従う人もありますが、知や意に従っている時も、悲しい気分で従ってますね。

 それから、嬉しいなあと思うのは勿論情が喜ぶんですね。だから幸福ということも、情が幸福なんですね。そのほか情については、人は一日中絶えずなんらかの気分がしていますが、その気分っていうものは言葉では云えませんけど、しかしよくわかってますね。自分が今どんな気分かわからんという人はない。ただそれを言葉で云おうとしたら云えないだけ。

 そんなふうに、情は総てまるで搔くということに例えますと、自分の身体を搔くようにかゆい所へ手が届きますね。しかし知や意というのは、どうもそんなふうにはいきませんね。靴の裏から足のかゆい所を掻いているようなもの。そんな感じですね。どうみてもそうなる。

(※解説1)

 日本には昔から「義理と人情の板ばさみ」という言葉があるが、岡がここで説いていることはほぼそれに当てはまる。

 「義」といえば正義(正しい道筋)の「義」であり、それを知情意に直すと「意」に当るのではないだろうか。そして「理」の方が「知」であると私は思う。だからここで岡がいうように日本人は「知や意」と「情」との板ばさみを、辛い思いで経験することが多いのである。

 そして日本人の理想は「知や意」をかなぐり捨てて、最後には「情」に軍杯をあげることである。特に今は少なくなったが、テレビの時代劇にはそれがよく現れているのであって、岡も晩年にはその時代劇によって「日本の心」を深く探ったものである。

 岡は「人のこころ」は万年単位でないと変わらないというのが自論であるから、数百年前の時代劇をただ古臭いとのみ取ったのでは「人のこころ」は本当にはわからない。実際、中国や韓国の時代劇と日本の時代劇とは、その内容が明らかに違っているのではないだろうか。

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