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2017.01.24up

岡潔講演録(23)


「1971年度京都産業大学講義録第23回」

【6】 印象と感銘

 ある唱歌の時間に、同級生が何かあまり(たち)のよくないいたずらをした。そうすると心のないわたしは、その尾にのっていたずらをした。そうすると、その当時わたしは坂本と云ったんですが、先生は涙の目でわたしの方をじっと見て、『坂本お前もですか』。

 それから『50年』ほど経った。終戦後のことですが、東京放送のある女放送員がわたしに大阪で名刺を渡した。その名刺を見ると古村(こむら)なにがし。これは『古村(こそん)』と読めるんです。それで丁度その時習ってた歌が

 『花あり 月ある孤村の夕べ

 何処に繋がん栗毛のわが駒』

この唱歌と共にあの時の先生の涙の瞳がはっきりと思い浮かぶ。たちまち思い浮かんだ。

 こういうのを『印象』と云う。また本を読んだりした時によく起こるんですが、深くはいって心の琴線をふるわせる、そしていつまでも心に残る。こういうのを『感銘』と云う。

 で、今の例で見ました通り、印象とか感銘とかいうものは、時間が経っても、いかに時が経っても、今生まれたばかりのように新鮮です。少しもその鮮明さ、みずみずしさは衰えない。こういうもの。

 この印象、感銘、これは『後頭葉』で受けて持ってるんです。記憶は側頭葉ですが、印象、感銘は後頭葉で受け持ってる。この印象、感銘の内容、内容は『頭頂葉』で蓄えられてる。『情緒』として蓄えられてる。情緒に姿を与えたものが印象であり、色どりを与えたものが感銘だと思えばよろしい。その元のもの、情緒として頭頂葉へ蓄えられると思う。

 また前頭葉から、本なんかを読んだ時、よく咀嚼玩味して身につけるものだけつけますと、これもやはり情緒として頭頂葉に蓄えられると思う。ともかくまあ、前頭葉は別として、感銘、印象というふうなものを受けると、本当に受けると、それが頭頂葉に蓄えられる。で、この情緒、この『情緒の全体が情の内容』、『即ち自分』ですね。

(※解説6)

 「情緒」というものを調べようとすると、必然的に「印象」と「感銘」というものに辿りつく。そしてこの2つは岡が経験したように「いかに時が経っても、今生まれたばかりのように新鮮です」と岡はいう。「坂本お前もですか」はいつまでも岡のこころの底に残っていたのである。まさに「情緒」は時間空間を超越しているのである。

 そういうことから考えると、情緒は「生があって、滅がない」。つまり情緒は美しく豊かになる一方であって、これを体現することが岡のいう人のこころの「真の向上」というものである。そういう人には必ず、情のバロメーターとして「品格」というものや「風格」というものが漂うのである。

 人生において、この印象と感銘をいかに多く蓄積するかによって、その人の人生の豊かさが決まるのである。そればかりではない、この情緒だけが次の生に持ち越すことができる唯一の心の要素なのである。

 そして岡はいつの場合にでも原理を導き出す。その結論が「情緒に姿を与えたものが印象であり、色どりを与えたものが感銘だ」というのである。

 猶、情緒と大脳生理については、講演録(7)「岡の大脳生理」の(13)「創造の視座」をご参考にして頂きたい。

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