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2017.01.24up

岡潔講演録(23)


「1971年度京都産業大学講義録第23回」

【4】 胸中、心中、腹中

 心中の情緒 ― 知的情緒、及び腹中の情緒 ― 意的情緒、こういうものを切り捨てます。そうすると残るものが情です。これを『真情』と云おう。これが『こころ』ですが。こういう意味のこころというのがわかるのは、世界中で日本人だけです。漱石が小説の標題に書いた「こころ」というのはこの意味のこころです。

 そうして出来た真情というものを形式化してみましょう。『真情は1つの分つべからざる全体』。真情には無量の情緒が詰まる(『無量の情緒をもつ』と板書)。情緒というのは真情の部分である。部分という言葉は使ってますが、やはり1つの分つべからざる全体です。真情の中には時間がない。空間もない(『時間、空間なし』と板書)。のちに云いますように、時というものはありますが、時間という計量的なものは無い。自分の情を調べりゃいいんだからわかるでしょう。空間も無い。

 これは計量的であると質的であるとにかかわらず全く無い。情の中に空間はありません。浅い情、知や意を入れたり、あるいは心理学的情を入れたり、意欲を入れたりすれば空間は出て来ますが、空間的なものは出て来ますが、人本然の情だけに切りつめれば、空間というものは全く無い。時というものは含んでいます。時は2種類あって、過去と現在と。未来というものはありませんが、新しい現在が古い現在に変わり、古い現在が過去になって行くということはあります。また、こういうことが無制限に起こるということもあります。だが未来というものがあるわけではない。

 2つの情は合一して1つになることがある。歴史をそのつもりになって調べますと、その好適例がいたるところにあります。2つの情は合一して1つになることが出来る(『2つの真情は合一して1つになれる』と板書)。だから2つの情は『不一不二』である。これが真の自分、すなわちこれが人ですね。(『人としての真情』と板書)。

(※解説4)

 岡は日常使っている日本語の中から「知情意」に関するこのような言葉を探し出してくるのだが、そんなところにまで関心を集めているのかと私などは驚かされるのである。

 「胸中をお察しします」というから「胸中」が情です。「あの人の心中がわからない」というから「心中」が「知」です。「腹中一物がある」というから「腹中」が「意」ということになる。

 さて、「真情というものの形式化」であるが、これは甚だ難しい。「真情の中には時間も空間もない」といわれてもあまりピンと来ない。

 そこで実例をあげてみたいのだが強いてあげれば、この講演録い(1)「情と日本人」の(3)「情の世界地図」の後半にある「禅師と母親」の話などが適例ではないかと思う。なにせ岡はこの話を聞いて、涙が止まらなかったというから。

 「この30年、私はお前に一度も便りをしなかった。しかし、お前のことを思わなかった日は1日もなかったのだよ」といわしめた母親の心には、まさしく時間もなければ空間もないではないか。

 また「2つの情は合一して1つになる」の例にしても、禅師から見れば自分の情と母親の情とは2つかも知れないが、母親から見ればしっかりと融合した1つの情ではないか。世のお母さん方はこれ程じゃないまでも、その実感がよくわかるのではないだろうか。

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