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2016.11.07up

岡潔講演録(21)


「昭和46年度京都産業大学講義禄第16回」

【14】 旅は道づれ世は情け

 この自然界を『現象界』と云うんですね。人生は現象界にあるんですが、現象界があるためには非現象界がある。『心の世界』がある。「情の世界」と云ってもよろしい。

 心の世界という基盤があるから自然界、現象界というものがあるのだ。基盤があるから、変わらないものがあるから、変わるものがあるのだ。こういうことは釈尊以来、東洋の大先達はそう教えてるんですが、それがどうも東洋人にも、教えても教えてもよくわからんのですが、西洋人には決してわからない。つまり心の世界、懐かしさと喜びの心という、そういう心の世界がある。それがよくわかるように姿に現われたのがこの自然界である。仏教はそう云ってるんだが、実際そうなんです。

 それから、一応聞いてそうなんです。が、なおよく科学してみると、不安定な素粒子というものの存在は、実際ますます人生は長夜の夢らしいと思わせる。少なくとも、長夜の夢でないと頑張ろうと思っても、論拠は、よりどころは一つも無い。そういうふうなんです。

 これが日本人ならばよくわかる人の世というもの。一口に云えば「情の世界」である。これを忘れてはいけない。わたし達の子供の頃、巌谷小波(いわやさざなみ)という人がおとぎ話の本をよく書いてましたが、それにこういう標題のがあった。「旅は道づれ世は情」。それがやはり大事なことです。日本人はそういうところに住んでる。それを忘れちゃいけないんです。ピッツバーグ市のような事件が起これば、ますますそこをよくあなた方に教えておかなければならない。そう痛感する。これで終わります。

(※解説14)

 私が小さい頃、祖母と土讃線を汽車で旅したことがある。そうすると祖母は近くに腰かけている人に話しかけ、長く世間話をかわしたものである。昔のローカル線では私の祖母ばかりではなく、多くの人がそれぞれに世間話をし、車内はにぎやかな雰囲気に包まれていた。

 ところが現代はどうだろう。そういう人は先ず見かけない。都会に近づけば近づくほど車内は静まりかえり、各人は雑誌を読むとかケイタイをつつくとかして、全く個人の殻の中に閉じこもっているのである。

 どちらが良いかは各人のご判断だが、私は静まりかえった車内なんか嫌いである。いつ頃からこうなったかを考えると、これは間違いなく戦後である。アメリカ文明が怒涛の如く流れ込んできたからである。

 この人間観を西洋の「個人主義」というのだが、この個人主義とはこの「肉体」とその中にある「自我意識」が自分だから、所詮は自分と他人となんの関係があるというものである。

 実はこの人間観は真実ではないから、いろいろな弊害が生まれてくるのだが、その弊害を補うために「愛」というものを筆頭に、「マナー」とか「エチケット」とかいうものが西洋にはあるのである。

 しかし人は肉体は違っていても、本来は仏教の説く目には見えない「心(第9識)」というパイプでつながっていて、そのパイプの中を岡の発見した「情(第10識)」という流体が流れるから、「懐かしさと喜びの世界」を各人は感じるのである。そして、この世界観から自ずと生まれた言葉が「旅は道づれ世は情」である。

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