okakiyoshi-800i.jpeg
2016.08.29up

岡潔講演録(19)


「1971年度京都産業大学講義録第5回」

【16】 自我を離れる

 自我を生かすと、個というものが生きてしまう。自我を忘れる、自我を離れることを『無我』と云う。『無私』とも云う。『無心』とも云う。使い方はみな違う。少しづつ意味が違ってるんですが、だいたい第1の心を離れること。

 これが全とのつながりを持つということです。自我が個ですね。個の特徴は自我ですね。だから自我を働かすということもいるが、自我を離れるということもいる。そうしないと生きるにならない。

 特に生きる喜びは全から来るんです。自我から生きる喜びの来るわけなんかない。自我とはどういう種類のものか、(ひと)の自我を見てご覧なさい。あんなところから生きる喜びの出るわけなんかない。自我を押し通すことが上手なのは『闘士』ですね。幸福というものがああいう色どりのものから出るわけなんかないでしょう。

 しかし大体の話以外には、これ本当に、ちぎれ雲のようにわかっただけですが、それでもどちらの方向が大事かと云う、そのヒントだけは与えることが出来たと思います。生物とはそういうものなんです。

(※解説16)

 ここが冒頭の問題「人は1日1日をどう暮らせばよいのか」に対する岡の結論である。西洋心理学でいうところの、あくまで自己中心に考える「自我」を離れることが、「人の生きる喜び」につながるのだと岡はいいたいのである。

 ここではその状態を「無我」とか「無私」とか「無心」とかいっているが、別の角度から見ればこれは「人のために働くこと」である。日常的には「人に親切にすること」であるし、「人を先に、自分を後にすること」でもある。昔の人は「外に春風、内に秋霜」といったものである。

 たとえば、日本には昔から「世話好き」の人がいたものである。若い男女を結びつける仲人役の上司も会社には必ずいた。政治家は「井戸塀」といって、井戸と塀しか残らないくらい政治に財力を注ぎ込む人もいた。

 私の身近では、金に困っている人を見過しに出来なくて、自分の財産を擦り減らしてしまう人もいた。職場の中や友人のことが気にかかって仕様がない世話好きの「おばちゃん」もいた。実は私も人に喜んでもらえる「差入れ」をするのが大好きである。

 そういう人に何らかの形で尽そうとする人が、本当は幸せなのだと私は思う。「生きる喜び」はそういう「自我を離れた」日常的なところから生まれてくるのではないだろうか。

Back   


岡潔講演録(19)1971年度京都産業大学講義録第5回 topへ


岡潔講演録 topへ