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2016.08.29up

岡潔講演録(19)


「1971年度京都産業大学講義録第5回」

【7】 無明と真如

 仏教のうちに『唯識論』と云うのがある。唯識論はこう云ってる、こんなふうに説明してる。人の心の一番奥は『第9識』、『アンマラ識』って云いますね。このアンマラ識の上に、と云ったらもっと浅い。これが『第8識』、『アラヤ識』。この第8識の上に『第7識』、これが凡人の心。これが『マナ識』。このマナ識に到って『自我』が出てくる。自我中心の心。

 ところで、第9識と第8識の本質的な違いですが、第8識は『相対』になる。どう相対になってるかと云うと、物と心とが相対になってる。物と心との2面に分かれる。それが第8識。第9識はそんなふうに2面に分かれてない。1つになってる。物と云うものもなく、心と云うものもない。物であると共に心、心であると共に物、そういうものしかない。つまり絶対なんですね。

 そんなふうになってるって云うんですが、人の心を説明するのに、人の心の主要部分は、第8識であると云う。第8識に2つの力が働いてる。1つは『無明』、もう1つは『真如』。真如と云うのは、第9識には限りなく良いものが限りなく多く蔵されている。これを第9識の妙真如蔵性と云うんですが、その心の奥底の限りなく良いものが働く。これを真如が働く、第9識のことを真如とも云うんですが、そう云う。

 人は真如と無明が両方働いてる。真如が働けば良くなり、無明が働けば悪くなる。そう云ってるんですが、その無明の説明がなかった。胡蘭成さんの話を聞いて、ビールスを行動せしめてるものが無明だと、そう思った。

(※解説7)

 ここは仏教の「唯識論」そのものがシンプルな形で語られていて、我々には非常にわかりやすいのではないだろうか。もともと「唯識論」は非常に難解な印象を受けるのだが、岡にかかればこんなに単純になるのである。

 つまり、第8識「アラヤ識」は心理学では「潜在識」と呼ばれるところであるが、ここは物と心が相対になっていて自己中心の第7識「自我」からくる「無明」と、第9識「アンマラ識」からくる限りなく良いものである「真如」とが混じり合うところである。

 だから、「自己抑止」をして自我からくる「無明」をできるだけ薄くしていけば、「真如」が輝きだすという構図である。これが基本的な仏教の「唯識論」の説である。

 岡はこののち、「唯識論」を人類で初めて突破し第10識「真情の世界」を発見することになるのだが、まだここではそのベースである「唯識論」そのものが語られている。

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