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2016.05.16up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【11】 唯物主義

 しかし、ガリレオのころ西洋人が自然科学をはじめたころは、こう思っていた。物質という不生不滅なものがある。すべての現象の第1原因は物質にある。そうとしか思えなかった。そうとしか思えなかったから、一度もこの仮定については反省を加えたことがない。

 これは実に乱暴な仮定です。しかし、一度も反省したことがない。今だってしていないでしょう。だから、これを唯物主義というのですね。この唯物主義だけは破れているでしょう。物質の中にも刹那生滅なものがある。物質という不生不滅なものがあるとはいえなくなった。ところで、私が見てみますと、現在の結果でどう見えるかというと、まず不安定な素粒子群はどこから生まれてきて、どこへ消えていくのかということですが、弁栄上人はそこまでいってられませんが、自然は映像である。第2の心の深みから映写される。

 第2の心は先ほどいったとおり浅いところでは時というものがあります。しかし深みに入ると時というものはない。しかし、なお無量の第2の心がある。2つの第2の心は不一不ニといって、1つであって同時に2つという関係だといわれていますが、そういう不一不ニの関係の無量の第2の心がある。しかしさらに深みに入ると、もはやただ1つの第2の心と合一してしまって、これを合の第2の心ということにします。

 第2の心の世界の最も深みは、合一したただ1つの第2の心、そこには個々別々ということもなく、時というものもなく、時間、空間などというものはましてない、そういうところ。

 そこから映写されているのだ、そういうのですが、私はこの素粒子はそうすると、直接そうとはいっていられませんが、自然は映像であって、その第2の心の世界の深みから映写されているのだ。ということは不安定な素粒子群は第2の心の深みから生まれてきて、またそこへ帰っていっているのだ、そういうふうにとれますね。

(※解説11)

 先ずここでは「唯物主義」が問題になる。今、我々が無自覚的に採用している世界観が、西洋から入ってきた「唯物主義」なのである。我々は先ず、そこを真剣に反省することから始めなければならない。

 ここでいちいち例をあげると大変なことになるが、脳内物質であるドーパミンやセロトニンが脳内活動の原因である、などといっているのが「唯物主義」なのである。

 「こころ」が変わるからドーパミンやセロトニンが排出されるのであって、ドーパミンやセロトニンが排出されるから「こころ」が変わるのではない。この順番を間違えているのが「唯物主義」なのである。

 少なくとも今日、岡のいう「生命現象」ばかりではなく、物理学の最先端の「素粒子論」までもが物質で全て説明することは最早限界にきているのである。

 岡はその「唯物主義」の不備を補うために、東洋でいうところの「こころ」と「直観」を導入したのであって、物質の世界といえども「こころ」と「直観」に依存して存在するといった方が真実に近いのである。

 そしてまだここでは、岡は第10識「真情の世界」を発見する前であるから、「第2の心」の構造は第8識(アラヤ識)と第9識(アンマラ識)から成り立っていると思っているのであって、岡がいっているように過去、現在、未来の「時」が第8識、不一不二の関係だけがある「個」の集合体が第9識ということになるのである。

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