okakiyoshi-800i.jpeg
2016.04.09up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【3】 第2の心

 人には第2の心がある。この心は大脳頭頂葉に宿っている。この心は無私です。私がない。私というものを入れなくても働くし、また私というものを入れようと思っても入れようがない。この心のわかり方は、意識を通さない。直下(じか)にわかる。

 西洋人はこの心、第2の心のあることを知らないのですが、東洋人は、西洋かぶれして忘れてさえいなければ、だれでもほのかには第2の心のあることを知っている。日本人はとりわけよく知っているんです。

 秋風が吹く、そうするともの悲しい。芭蕉は「秋風は ものいわぬ子も 涙にて」、そういっています。秋風さえ吹けば、必ずピアノの同じキーを押したように、もの悲しさという音色を奏でる。だから、この心は無私の心です。

 また、漱石に「こころ」という標題の小説がある。ここでいっている「こころ」ということば、この「こころ」もまた無私の心です。こんなふうに日本人は第2の心の世界に住んでいる。自然にも、人の世にも、至るところ第2の心が満ち満ちている。その中に住んでいる。仏教は第2の心を真の自分だといっています、これを「真我」という。

 ところで、道元禅師は「本来の面目」と題して「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて (すず)しかりけり」こういう歌をよんでいる。本来の面目といえば、真我という意味です。

 ところで、この歌を注意して読んでみましても「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて (すず)しかりけり」としか書いてない。どこにも自分というもののことは書いてない。これは、第2の心は意識を通してみれば姿が見えない。どこにもないとしか思えない。それでこの真我の姿を「無」というのです。

 また、この真我は、真我の内容を「空」というのです。「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」それが自分だといえる。自分は「空」です。その姿は「無」ですね。この第2の心のあることを知っているか、いないか、それによって東洋と西洋の著しい違いが出てくる。

(※解説3)

 ここでは「第2の心」が正確に定義づけられている。そして西洋人は「第2の心」を知らないというのが岡の主張である。万一それが本当だとすれば人類のもつ文化活動全般は、政治経済だろうと学問芸術だろうと、はたまた宗教でさえも全てこの原理が当てはまることになるのである。

 そういう見方で我々の周辺を見直し、人類のもつ文化活動をもう一度見直していくことが、今の我々の喫緊の課題であり、それが人類の未来をひらく鍵となるのである。

 猶、「真我の内容を空といい、真我の姿を無というのです」とはおもしろい表現だが、岡の資料の中でも「空と無」の関係について言及しているのはここ以外には見当らない。

 一般的にいって、この「空と無」の違いを強調する人が多いように思うのだが、岡は概してあまりそれにこだわってはいない。少なくとも私にはその違いがよくわからないし、岡の思想のスケールからすれば、それは枝葉末節ではないだろうか。

 私には「空と無」は内容の違いではなく、形式的な言葉の違いだけであって、仏教では「空」といい、中国では「無」というのではないかと単純に考えているのである。

 ただそれよりも大事なことは「空」でも「無」でもよいのだが、大概の人は「空」は1つだと決めてかかっているが、岡にいわせれば「空」には第1空(第8識、アラヤ識)、第2空(第9識、アンマラ識)、そして岡の発見した第3空(第10識、真情)の3層があるのであって、そこまで考えが及んだ人は今までいないだろうし、人の心の構造の真実を知るためにはそのことの方が余程重要ではないかと私は思うのである。

Back    Next


岡潔講演録(18)創造の視座 topへ


岡潔講演録 topへ