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2016.2.2up

岡潔講演録(17)


「1969年の質疑応答」

【20】 民族的集団生活

(質問) 司馬遼太郎さんとの対談でですね、禅というのは10万人に1人の天才の道だという風に、司馬遼太郎さんは対談の中でおっしゃっていましたが。

(岡) それ程じゃないまでも、余程特別な人でなければ、ああいう個人生活を通して目覚めるというのは難しい。個人生活よりは、たとえば中国という国という集団生活が目覚めやすく、さらに日本民族という集団生活、これは非常に目覚めやすいんです まるで比較を絶して違う

 だから、伊勢の内外宮を思慕できるなら申し分ない。それができないのなら、せめて日本民族を一大家族と思って、自分はその1人だと思ってたらいい。それだけで充分目覚めますから。そうしてるうちに段々、日本民族が真の自分だと思えてきます。

(※解説20)

 ここでは仏教国、中国、日本の集団生活のあり方の違いを指摘してくれている。

 先に岡は「仏教徒に愛国者はまずない。ましてや愛民族はない」といっているが、日本歴史をふり返ってみてもそれは頷ずけるのではないだろうか。

 仏教の最終目標は「第9識」の「知の悟り」であるが、そこには岡からみれば「偉さ」を求めるという不純物があって、自分1人が悟りを得て偉くなりその集団の権威になるという、あくまでも個人主義的なものではないだろうか。

 更に中国は古代から「政治」が最優先であるように現実主義であって、いかに「生の位」を謳歌するかに関心が高いようである。だから人の「死の位」は眼中にはなく、あくまでも現実的な3次元の「国という集団生活」を求めているのだろう。この2つを岡は「東洋型個人主義」というのである。

 しかし、日本は「情の国」であるから個人主義ではあり得ず、民族全体が1つの心に溶けあってしまうのであって、それは現在生きている人が横につながるばかりではなく、4次元的にも過去の人々とつながっていること、つまり我々は真に日本民族の一員だと思えることなのである。

 私は畏れ多くも岡潔ばかりではなく、教育の会の内田八朗や絵の会の大野長一にも、それと同じように「一心同体」という感触をもつのである。

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