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2015.12.26up

岡潔講演録(17)


「1969年の質疑応答」

【14】 人類の夜明け

(岡) この、「曙」を是非読んで欲しい。「曙」は日の昇りかけた景色です。真昼の景色は「神々の花園」ですが、まだ足りないと思いまして、今度、「流露(りゅうろ)」というのを書く。全ては心そのものの発露であるという意味です。「流露」なんていい言葉でしょう。釈尊は仏教を説いたんです。あれは初年級用です。小学1年。全ては心そのものの発露です。

(質問) あのう、先生は最近「曙」っていう本を出版されたんですけれども・・・

(岡) 「曙」以前は、まだ夜が明けてないんです。

(質問) 大体、「春宵十話」にしても、大体、出典がね、題名が明記されてるんですけれどもね、どうして「曙」っていう題をつけたかっていうことですが・・・

(岡) それは曙の景色だから。書いてる内容が。外の景色が少うし見えはじめた。

(質問) 春は曙・・・

(岡) それ以前は決して見えてません私がそうなんやっと水の中から、洪水の中から空気中へ出たんです。そして最初に書いたのが「曙」。春は曙なんて、そんなふざけたもんじゃないこの、道元禅師にあってから20年かかって、やっと空気中へ出たんです。それくらい深い物質主義の水の中におったんです。出るためには「正法眼蔵」、非常に便利です。だから教えに来て下さった。その必要もない者に、ああいう現象は起こりません。それくらい水が深かった。やっと空気中へ出て、空気中の風光を書こうとしはじめたんです。それ、「曙」以後です。やっと景色が少うし見えだしたという意味です。

(※解説14)

 原理「2つの心」を提唱する岡の1969年の思想が、人類ばかりにではなく岡自身にとっても画期的なものであるという、岡自身の証言である。

 「曙は日の昇りかけた景色、真昼の景色は神々の花園」とここではいっているが、一応岡の晩年の資料の全体に目を通している私から見れば、「曙」「神々の花園」「流露」の3部作を合わせて「日の昇りかけた景色」と見るのが妥当である。

 実は、この3部作を読まれた方さえまだ少ないのではないかと思うのだが、晩年になればなるほど岡の境地の深まりは凄まじいものがあって、これら3部作は岡の晩年中期の入口という位置づけになるのである。従って、このことから岡の晩年の思想のスケールの雄大さを、皆さんにもいくらかでも彷彿として頂けるのではないだろうか。

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