b 岡潔講演録(16):【 8】 茫然自失のはずの物理学
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2015.08.13up

岡潔講演録(16)


嬰児(えいじ)に学ぶ」

【8】 茫然自失のはずの物理学

 これで物質は不生不滅であるという古来の観念は破れた。また物質をもって第一原因とするという理由もなくなった。にもかかわらず、他の自然科学は旧態依然としている。じゃあ物理学はどうかっていえば、物理学者は何よりも時間空間の全体を考えてるから、一体、素粒子はどこから生まれてきて、どこへ消えていくのだろうと不思議がって、茫然自失してるというのは本当でしょう。

 本当は自然科学は救いようもない間違いを発見したということを知らない。どうすれば学説をごまかすことができるだろうかと、それに専念している。もうそれに専念しだしてから大分になります。如何にごまかすかったって、こんなん駄目ですよ。早く間違いを認めなければ。

 それじゃあ一体素粒子はどこから生まれてきて、どこへ消えていってるのか。これについては先程挙げました山﨑弁栄(やまざきべんね)上人の「無辺光」の大円鏡智の章に答えが書いてあります。「素粒子は第2の心の世界から生まれてきて、また第2の心の世界へ帰っていっているのである」と。人の真の自分は第2の心、第2の心は不死です。大体、この、物質がそこから生まれてきて、またそこへ帰っていくくらいの不死です。

 猶、自然科学が法則を充たすというのも嘘ですよ。山﨑弁栄(やまざきべんね)上人は、あの方は数々の奇跡を行なってられる。奇跡というものが本当にあるということと、自然科学が法則を充たす、即ち学問であるということとは両立しない。ところが釈尊やキリスト(は奇跡を行なった。しかし、)法則を充たすということが実験できると思いますか。できるはずない。

 そしたら一握り。で、あれは昨日もそうだった、一昨日もそうだった、その1つ前もそうだった。だから今日もそうだろうというのと同じこと。つまり生きる為の知恵という。生きる為の知恵という、それも物質現象に限られてるというものならば、猿はそんなもの持ってます。人が自然科学を持っているということと、猿とはなんら区別のつけようがない。

 人は道徳を持ってるから猿と違うのです。価値判断を間違ってしまっている。猿と同じです生きる為の知恵です しかも物質現象に限る 今までそうだったから、多分、今日もそうだろうと思ってる。山﨑弁栄上人のような方が突如としておいでにならないとどうしていい切れる。まして神仏(かみほとけ)は無量にいますよ誰一人来たってそうはならん。

(※解説8)

 「自然科学は間違っている」とはっきり明言しているのは、多分今でも岡潔ぐらいのものだろう。大概の科学者や知識人は自然科学を盲目的に信じているように見えるし、目のよく見える人でも「自然科学は何となく怪しい」ぐらいにしか思っていないだろう。大体、自然科学を批判できるような根拠や理由が正確につかめないのである。

 しかし岡は、いつものやり方のように自然科学の根底を調べ、その根底が間違えているから、その上に積み上げた自然科学体系はいずれ崩壊すると見ているのである。岡がいいたいのは、自然科学は数百年かかって自らが根本的に間違っていると認め得るところまできているのだから、せめて科学者達はそれを早く認めて、先ずは深刻に「茫然自失」ぐらいはしてもらいたいということである。

 これが真に科学的立場ということであって、今のように問題解決は「臭いものには蓋」とばかり先送りにし、「現状の科学でどこまで行けるか、ともかくやってみよう」では無責任極まりなく、危険極まりないないことなのである。また、「奇跡」がなぜあり得るのかが問題になっているが、岡は物理学で考えているような「物質」などというものは存在しないと見ているのである。

 「物質」とは各自の内奥の「第2の心」が外界へ投影された共通の映像であって、「第2の心」を十分自覚する力をもった人ならば、その映像である「物質」を変えることは可能であると岡は見ているのである。よく見かける「スプーン曲げ」がその1つの例である。

 近頃、巷では機械物による「バーチャル・リアリティー」が盛んであるが、「物質」の世界といえども実はその「バーチャル」な世界なのであって、我々は「物質」というバーチャルな映像を見て、「物質」があると思い込んでいるのである。

 つまり「物質がある」のではなく、見えているから「物質がある」と思うのである。仏教はこれを「自現自観(じげんじかん)」といっているが、岡は晩年(1973年3月)それを実証するため、自分自身を実験台にして、自宅の風呂の湯舟のなかでそのことを実験している。

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