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2015.08.13up

岡潔講演録(16)


嬰児(えいじ)に学ぶ」

【3】 古代数学のはじまり

 中国の数学のはじまりは次のようである。中国は東洋人で第2の心のあることを知っている。のみならず、時々目覚めた人が出ている。それで聖人がいたとする。その聖人が、12ヶ月から20ヶ月までの8ヶ月間のことを思い出して、それで散歩の途中ですが、しゃがんで手に石を1つ載せてみる。何だか懐かしい気がする。2つ載せてみる。そんな気はしない。むしろ、1つ放ってしまいたい気がする。で、また1つ載せてみる。しみじみとした気がする。

 石をやめて、栗を1つ載せてみる。同じ、何かしみじみとした気がする。それで何を載せても皆そうです。それで、この同じ1つの実感に符丁をつけて1とこうしたんです。2つ載せますと、これも実感は実感ですが、妙に落ちつかなくて、1つ放ってしまいたい気がする。栗でもなんでも皆そうです。この実感に符丁をつけて2とした。

 それで面白くなって、明くる日は早くからそこに来て、今度は石を3つ載せてみたとしよう。なんとも知れん複雑な気がするんです。長くかかったでしょうね。大体、これは実感じゃない。というのは意識を通す。で、それをこういろいろ見てますうちに、複雑なのは当たり前で、3は1ばかりに別けることができる。それから2と1に別けることもできる。それから1と2に別けることもできる。こういうことに気づいた。

 これは実感じゃありません、意識を通します。意識を通す一種の感覚ですね。この感覚に符丁をつけて3とする。これも石であろうと栗であろうと何であろうといっしょなんです。3とする。あと4から10までは皆意識を通します。

 で、いろいろそういう意識を通す、これは感覚ですね、感覚に符丁をつけていったんでしょう。そして、この符丁をつけたということを実生活に使ったんでしょう。符丁を実生活に使っているうちに、だんだん順序数も出てくりゃあ、自然数も出てくるようになったんだと思う。こんな風だと思う。

 ところで石を1つ手に載せた時に、もうなんとも知れん懐かしいような安定したような気がする。2つ載せると何だか落ちつきのない、放ってしまいたいような気がするというのは、これは余程はっきり目覚めてる人でないとできません。童心の頃のあの頃を憶えてて懐かしいなんていうのは、神でなきゃあできんこと。

 だから中国の聖人が数学をはじめたんです。同じことで、インドにおいても当時、東洋人がおった。それからメソポタミアにもそうです。エジプトにも当時、東洋民族がおって、そして、その神々が数学をはじめたんです。

(※解説3)

 ここは数学の苦手な私よりも、誰か他の人に解説してもらいたいところなのだが、古代数学のはじまりは「手に石を1つ載せること」であったと岡はいう。これは「知の世界」などではなく、既に「詩人の世界」である。数学の基礎はつまるところ「詩」に帰着するのだろうか。それもそのはずで、岡は「数学の詩人」とも呼ばれるのである。

 さて、先にも触れた私の絵の会の大野長一を、私は同じく「絵の詩人」と呼んでいるのであるが、その大野もこれと似たような経験があると見えて、著書「子供を拝む」の中に「手の中の石」という文章を残している。

 「手洗いに行ってハンカチを出そうと思って、洋服のポケットの中に手を入れますと、親指大の小石が一緒に出てきました。この石は、私の保育園の園児が私にくれた黄色の美しい小石です。折角、くれた石ですので、私はそのまま洋服のポケットに入れたのですが、それ以来時々こうして思いもよらないところで、この石にお目にかかります。そして随分(とぎ)になってくれています。1つの石が、人の手の中にあるということは、考えてみれば不思議なことであり、有り難いこと、ありにくいことであります」

 私はこれを読むと大野の風貌とあいまって、1つの小石に心を集めつづける、何かしみじみとした大野の人格を思い出すのである。まさにそれは、古代数学をはじめたと岡のいう聖人の姿である。

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