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2018.05.27up

横山講演録(4)


対談 小原實晃・横山賢二 第2部 「心の構造と大脳」

【16】 2つの知情意の発見

(横山) それから話は変わりますが、「2つの知情意」ということをここでご説明したいんですが、これが全てのことに応用できる「原理」になると僕は思ってるんです。こういう視点は僕しか持っていないと思うんです。

(小原) 見たことがございません。

(横山) 岡先生のものを随分と読んでくると、こういう風な図が自然にでき上がったんです。まず浅い「第1の心」の「意」というのは、岡先生がいうには1969年にショウペンハウエルのことを取りあげていまして、西洋人の心の構造というのは「意志」が心の根底にあるということを彼がいっているというのです。

(小原) ショウペンハウエルは「生きんとする盲目的意志」といっていますね。まあ性欲みたいなものですよ。

(横山) そうですねえ、それは弁栄上人の言葉ではなかったですか?まあ、性欲というより意志というのはちょっと違うと思うんです。性欲というのは第7識(マナ識)という本能の層から出てくるのですが、この場合の意志とは「対立する意志」ですね。人と人、人と自然が対立し、それを征服しようとする意志。

 この意志が西洋の心の根底にあるということをショウペンハウエルはいいまして、岡はそれに気づく訳です。「意志と現識としての世界」という彼の本を読んで、それで「こんな汚い世界があったか、まるで息が詰まりそうだ」といっているんです。ここを読んで初めて僕は「そうか、第1の心の根底は対立の意志か」と気がついたんです。これがわかった。

 そして1972年に仏教の第9識(知)の下に第10識(情)があると岡は発見したでしょう。だから「情」が根底だといい出すんです。それで僕は「アレ」と思ったんです。西洋は意志が根底にあるという。しかし我々日本人の直観としては情が根底にある。これは当たり前だと思った。ところが世の中を見てみると、情が根底であるといっている人は日本人でもまずいないんです。これは西洋思想が蔓延していたからです。

 それでその頃は既に東洋は深い「第2の心」で、西洋は浅い「第1の心」であることを確認していましたから、そうすると「第2の心」の根底は情で、「第1の心」の根底は意志ではないかと仮定してみたんです。そして、次には2つの心の知情意の働く順番はどうか考えてみようと思ったんです。

 そうすると西洋は力が強ければいい、言葉が巧みであればいいという風に単純なんでしょう。ところが東洋思想は「待てよ、逆ではないか」と思った。例えば「いう者は知らず、知る者はいわず」老子。それから孔子は「巧言令色、少し仁」。そういう風に東洋思想は全て逆説ではないかと思った。

(小原) なるほど、そうするとこの「2つの知情意」は全然違いますよね。反転しますね。

(横山) そうなんです。それでなぜ逆説になるかを更に考えた時に、知情意の働く順番が違ってくるんじゃないかと思った。

(小原) なるほど、そこを読みとった訳ですね。

(横山) 逆説になるということは、知情意の順番が違ってるんだろうということで、例えば「第2の心」の東洋では情が根底にあるんだから、その次は知、その次は意だという順番が成りたつ訳です。情知意の順ですね。情が根底にあって、次に知が働く、知が働くから行動(意)できる。これが我々の心の働かし方なんですね。それが普通なんです。

 だけども世の中は、それとは違う原理で動いているように見える。「競争原理」というのがそもそもその典型なんです。「弱肉強食」や「攻撃は最大の防御」という言葉もある。そこには意志が根底だという暗黙の前提がある。まあ、そういうことがわかってきた。

 それで西洋では「意」が根底にあるから、残りの「知と情」を比べてみると、「第1の心」 の西洋では「感情的になっては理性は働かない」といいますから、「知」が「 情」の基礎にあることになって、「意知情」の順になる。東洋とは全く反対です。それでこの仮説に自信が持てるようになったんです。実際、岡も京産大講義の中で、「2つの知情意」をそういう順番で考えている箇所が確かにあります。

 そういうことで、深い「第2の心」は情知意、つまり真情、真如、アラヤ識。浅い「第1の心」は意知情、つまり競争心、理性、感情という順番で働くということがわかってきたのです。これは人類の心の世界を解くための大原理なんです。人類の文化文明の全てが、この原理で説明できると私は思っているのです。

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